ちゃんねるが合わない

12日ぶりにビデオをアップしました。お時間あれば、ご覧いただきたいと思います。ブログも8日ぶりです。記事を書くこともあったし、体調が悪かったわけでもなかったのですが、アップして、読んでもらいたいという気持がまったく起きなかったんです。

たぶん多くの日本人(90%位?)が持っているような、ごく軽い鬱をわたしも持っていると思うんです。それが時々顔を出すんでしょう。すると、なにをやっても無駄だ、という気持になって、やりかけのことも投げ出したくなってしまう。その一方で、「軽い」というのは、いい音楽を聴いたり、いい絵を見たりすると、すぐに元気が出てきて「もう少しだけ先へ進めよう。それから止めよう」とも思えるからです。

昨年いっぱいで、作品発表のほとんどの場から身を引きました。大きく見ると、わたしはどんどん「社会」から後じさりしているようです。社会の中へ出ていくこと、社会と関わっていなくては、生きていくことが難しいように世の中は作られているのですが、なるべくなら一人で居たい、という性格は子どもの頃から、あまり変わらないようです。かといって、一人で畑を作り、魚でも釣って自給自足するほどの知識も能力もなく、単なる願望にすぎないので、本当に一人で生きていくこともできません。

現在は絵画教室があり、それがなんとか社会とつながる接点です。絵を描かない、興味のない人たちと接点を持つことがほとんどありません。社会との、絵以外での接点を広げるような努力はまったくしてこなかった(絵でさえも積極的ではなかった)。そういう意味で、わたしは社会的「不適合」者だと、自分を位置づけています。たぶん「不適格」ではないと思うけれど、繋ぐことが上手にできないタイプなんでしょうね(「絆」なんて言葉も嫌いだし)。
 決して人間嫌いではないけれど、社交好きではない。ファーブルやシートンが好きなのは、そういうところがああるからかもしれません。でも、日本ではそういう人が増えているんじゃないでしょうか。つまり、一方でSNSなどで人とのつながりを求めつつ、一方でそれぞれが一人になりたがっている。そのジレンマの中で、誰もが「軽い鬱」を持っている。つまり、わたしのような人はごく普通だと言っているわけですけど。

身体というフィルター

思わず、ポカンと口を開けてしまった。そこにわたしのやったことが書いてあったから。ちょっと長いが引用する。―「たとえば、リンゴと言えば赤くて丸い果実のことですよね。もうガチガチに辞書的な意味が固まっていて、亀裂などない。だけど詩人は、言葉と意味の束縛を解いて、まったく違う意味を見つけます。リンゴを割った断面を崖の斜面に見立てたり・・・」―。まるでわたしが崖とリンゴ(今のAppleシリーズにつながる)を結び付けた瞬間を見ていたかのようだ。

今朝読んだ、朝日新聞デジタルでの連載「AIと私たち」の中で、郡司ペギオ幸夫氏が述べたこと(ちなみに、ペギオはペンギンが好きだからなんだと)。でも、次の瞬間、別のことも考えた。「例に出すってことは、誰にも分かりやすいってことなんだな」。飛んでる発想ではなくて、ちょっと横に一歩足を出してみただけ、ってことかと。もちろん、わたし自身もその程度だなとは、当時も今も思っているけどね。

こうも言っている。「AIそれ自体より、AIによって世界がすべて理解できると思いこんでしまう人が増えていることが、怖いですね(少し短くしています)」。解剖学者の養老孟子氏が「AIはバカの壁を越えられない。身体を馬鹿にするな、と言いたいね」と述べていることにもつながっている。

「何を描くか」の発想を考えるとき、(今はあまりしないが)まず詩集を手に取って、イメージの湧きそうな言葉を拾い出すことから始めていた。詩の内容はあまり深く理解できなかった気はするが、言葉から発想、空想を広げられるかどうかには、わたし自身の経験が重なることが必要だった。「身体というフィルター」を通して言葉と意味を行き来させるかぎり、そこには鮮やかな(個別の)ディティールが浮かび上がる。小さな突起で腕を擦りむいた―そんな身体性が、作品を支えていたんだなあ。AIが作る画像の空虚さが、まさにそのことを裏返しに示しているのだと思う。

できることから-2

「できること」は人によって違う。そんなことは常識。だけどそれは言葉だけで、わたしなどはつい、「(人と同じ程度のことは)自分にもできそう」な気がしてしまう。「人と同じ程度の」の「人」ってどんな人のことなんだろう。「同じ程度」ってどうやって計るのか、なんて考えずに、漠然とそんな気になっている。

歌を歌う。楽器を演奏する。魚釣りをする。山登りをする。詩を書く。料理をする・・項目を挙げればきりがないが、どれをとってもプロ級に上手な人もいれば、不得意な人もいる。が、「普通」とか「人並み」ってどの程度なのか、誰にも判定できない(のではないか、と思う)。なんとなく、「自分の中の平均値?」に照らしているだけ。経験がなければ、それさえ作れないはずなのに、なぜか(神のように何でも)分かっているような気になっていたりする。どうしてなんだろうか。

一種の「情報・知識」があれば、「知っている」ような気がするんだろうね。知識の中には「他人の失敗」というのもある。自分はそれよりはちょっとマシかな、というヤツ。そうすると、「できること」というのは、一定の知識があり、しかもそこそこ「自分はもう少し上手くできる」くらいの自信があるもの、ということになるのだろうか。

未経験のことなら、できるかどうかなんて、やってみなくては本当は分からない。できても出来なくても、やってみれば何がしかの手応えがある。それを基に、できそうだと感じたら、もう少し深くやってみる。そういう意味なら「できることから」ではなく、「出来そうなことから」にタイトル変更だ。一方、いろいろやってみて、どれも薄い手応えしか得られなかった経験者からすると、その(薄さの)濃淡から、「とりあえず、これなら」という感じで、「できたことから」になるのだろうか。
 最近、「なんでこんなことができないんだろう」と頭を搔きむしることが増えた。それが、髪の毛が薄くなったのと関係があるかないかは知らないが、本来やるべきことを忘れて、こんなどうでもいいことを妄想していた。これじゃ、できることもできなくなるワケだよね。