マチス「自由なフォルム」展から

有名な作品の「下描き」です(撮影が許可されています)
教会の雰囲気を作っています(たぶん実物大)
7日からの平日に備えてか、思ったほどの混雑はなかった(写真が許可されています)

昨日(5月6日)、久しぶりに乃木坂の国立新美術館に行ってきました。国画会を見るのが主目的でしたが、体調も良かったので、少し無理してマチスの切り紙を主体にした「自由なフォルム」展も見てきました。もう一つ、「遠距離現在」という現代アートの企画展も見ましたが、これは上の2つとはかなり異質で興味深いものですが、ここでは触れないでおきます。

巨匠と言われる人たちに共通していると感じるのは、みな「自分に対して」まじめだなあということ。ごく初期のデッサンの練習から、絶筆に至るまで、ほんとうに自分のやりたいことに向かって一生懸命なんだと、つくづく感じます。
 「自分に対して真面目」というのと、自分勝手、やりたいことをやればいい、というのとの間にはちょっと説明が必要な気がします。「自分に対して」と絵画の本質、つまり、自分が信じる、「絵画の歴史的な流れ=本流」の両方に対して、「謙虚だ」ということです。(勉強するか、直感かは別として)歴史的な洞察力が必要だってことですね。話は飛びますが、いわゆる現代アートこそ、そのことを踏まえないと、単なる “脱線事故” になってしまいます。

 マチスも途中までは普通の油絵、普通の陰影による肉付けで勉強しています。けれど、それが本当に自分自身を表現するのにふさわしいのか、疑問を感じながら描いているのでしょう。いくつも、明暗法を自分なりにアレンジしながら、方法を探っているのが分かります。凡庸な画家とはそこがすでに違うんですね。上手くなるのが目的じゃないんですよね。

やがて、陰影法が自分に合わないことがはっきりしてきます(別のかたちの立体表現を試みる)が、いろんなアレンジを自分でやったみたからこそ、どうしてもダメだという結論を出せたのでしょう。他人のアドバイスに頼ってばかりいたら、迷ってしまって、そんなことはできません。
 陰影表現が合わないとなったら、もう線と色の表現に磨きをかけるしかありませんが、陰影法をきっぱり捨てられたマチスは、そこから一気に本物のマチスになっていきます。真面目な、努力家なんですよね。―いつも長くなって済みません。

ご無沙汰いたしました

ジャーマンアイリス ペン・水彩

まるまる3か月ぶりに書きます。今日は日曜日ですが、やることがいっぱいあって(しかも、ほとんどが「作業」)、すこし早起きしましたが、体調はいいので、今日の分はできるでしょう。

皆さん、ご無沙汰しました。体調でも悪いのかとご心配下さった方もいるかもしれません。ご迷惑をおかけしました。皆さんは、きっと穏やかにお過ごしくださったことと拝察いたします。また、よろしくお願いいたします。

無常無心

一日中憂鬱で、絵を描く気力も湧かなかった。

教室の仲間がまた一人亡くなったと連絡があった。1月末には退院できるかなと、思っていたが、2月になっても復帰できずにいた。いつも意欲的で、新しいことにチャレンジする人だった。81歳。心からご冥福を祈りたい。描きかけの絵があり、退院してきたら、最終のステップを体験してもらいながら、完成へと行くつもりで準備していた。

最近、わたしの周りでは土木工事、解体工事がやたらに目につくようになった。時期的なものかもしれないが、ここ数年では見られなかった多さ。なにかが、動き始めているのだろうか。

昨年で、銀座等で開くグループ展などから一切手を引いたことは、前にもお伝えした通りだが、時間の流れと、無常を繋いでみると、もっと正直に自分の絵を描かなくては、と思う。人に見せることが絵の宿命ではあるけれど、別にそこで共有だの、共感だのを求めなくてもいいのだ。絵の評価など、どうせろくなものではない(今年、ある展覧会の審査員をするのだけれど)。褒められようが、けなされようが、せいぜい五十歩百歩だ。そんなのに惑わされず、出来るだけ無心に描くことが、幸せへの道ではないかと思う。わたしは絵のことしか知らないが、好きなことに無心になること、自分を澄ますことに憧れる。