縮む

ある日(数年前)のスマートフォン画面から

水に潜るなど、水圧がかかる状態では人間の身体は縮んでいく。深く潜ればそれだけ水圧が高くなり、身体は更に縮む。

人体は老化によって(男女や人種などによってプロセスは若干異なるだろうけれど)、特に軟骨組織の減少によって骨格も縮むことは、経験的にもよく知られている。

男性のTシャツなどは、女性のサイズランクよりずっと大雑把で、基本S,M.L.LLの4種類程しかない(ジャケットや背広はもう少し選択肢があったような気がするが、着ることもなくなってもう忘れてしまった)。数年前まで、わたしは日本製ならほぼLサイズ(たまにLL)で問題なかった。けれど最近、妻がわたし用にMサイズのシャツを勝手に買ってくる。時にはSも。確かに、以前穿いていたジーンズなど、“ピッタリ” から袴(はかま)のようになってしまったことは自覚していたのだけれど。

脳だって身体の一部である以上、他と同じ程度に縮んでいても不思議ではない。頭蓋骨は硬くてそれほど縮まないから、頭の中が空洞化しているのかもしれない。そういえば、最近頭の中で谺(こだま)が聞こえるような気がする。記憶力、判断力、思考力等マイナスの自覚も大アリだから、サイズだけでなく、質も密度も縮んでいるらしい。「太る」話も聞きたくなる。

愛の深さ 2

「芍薬ー2024・5月」 水彩 F6

「愛の深さ」とは、結局のところ「関心の深さ」と非常に近いものではないか、と思う。たとえば、先日、フジコ・ヘミングさんのことを書いたが、彼女のピアノへの愛と、ピアノに対する関心、興味の深さと、それは本人にはあまり区別できないのではないだろうか。

子どもに対する親の愛情だって、子どもが何を感じ、考え、今どうなのか、それらは関心、興味の深さと言い換え可能なのではないか。強いて分けるならば、それに自分がどう関わって生きようとするのかという、能動的な立場の違いがあるかもしれないが、彼女の場合で言えば、違いなどほとんどないのではないかと思う。

もしも、そのアイデアが正しいとするならば、たとえば、絵画への愛の深さは絵画への興味・関心の深さだと言える。ただし、そのことは、絵を描かない人は描く人より絵画への愛が薄い(浅い)ということを、まったく意味しない。描くことが好き、観ることが好き、それぞれ別のものだと思うから。描かなくたって、好きな画家、作品、美術の歴史、美術の周辺技術など、興味・関心の対象となるものは、どれをとってもそれぞれ底なしに深いものがあるだろうし。
 要するに、通り一遍で、済ませられないものには、どれも愛を感じていると言ったら言い過ぎだろうか。スイーツ愛でもラーメン愛でも、必ずそこに自分の何か、たとえば時間、たとえば体力、たとえばお金というように、負担をかけてでも「もっと深く知りたい」「深く関わりたい」という衝動のようなものがある。それを愛と呼んでいいのではないか、ということ。

わたしたちは機械ではない。機械のような正確さも強さも持ち合わせない。コンピューターのような記憶力も計算の早さも無理。間違い、無駄なことを繰り返す。けれど止められない、知りたいこと、もっと関わりたいことがある。それは愛と同じものではないか?
 自分の胸に手を当てて考えてみる。なにかを愛しているだろうか。

能力

「デンドロビウム」 水彩

最近いろんな能力なくなったなー、とか口癖のように話し、書いたりするようになった。実際、そう感じるようになったからだが、実は人間の能力なんて、そう簡単には比較したりできないものらしい。

人間と他の動物との能力差ももちろん単純比較などできない。「霊長類」などと自らを勝手に最上位に評価して威張っているが、比べる項目自体、人間目線でしかない。人間から見て比較しやすいところしか、人間には見えていない。その人間の中でも、特定の能力、たとえば学習能力(この言い方もあいまいだが)、運動能力、etc,etc.ひところ流行った、○○力なんてのもその類だ。だから、本当はわたしもそう落ち込む必要なんかないはずなのだが。

海辺に棲む、ゴカイという、せいぜい十数センチほどの生き物がいる。磯にいるムカデと思えばイメージは近い。捕まえて釣り餌にするのだが、このゴカイに、血が出るほど噛まれたことがある。
 驚いて口の部分を見ると、小さくても立派な牙がある。だから、“捕まえたら直ちにハサミで頭を切り落とせ” という、かすかに覚えていた教えの意味を、その時初めて了解した。しかもコイツをじっと掴んでいることもできない。どんなに強く握っても、まるで鋼鉄で出来たスブリングかコイルのような感じで、グイグイ指を押しのけ、指のあいだから抜け出してくる。岩にびっしり生えたイガイ(ムール貝によく似た小型の貝)の隙間?に簡単に潜り込んで行けるくらいだから、人間が指を閉じる力など問題にしないのだ。

こんなすごい能力を、人間的に評価しても何の意味もない。人間は走ったり、泳いだりできるから、ついチーターと比べたり、イルカと比べたりするが、たとえばゴカイのような恐るべき能力などに、人間の想像力の方が追いつかない。イカだのタコだのが、体表面の色素を広げたり縮めたりして、身体の色を変えるのは多くの人が知っているが、それを人間の尺度で評価する意味は同じくゼロ。ただただ、スゲーというしかない。地球はそんな生き物で溢れているのだ。
 だから、わたしたち老人というイキモノもそう卑下しなくてもいいのかもしれない。もしかしたら、ボケだって、視点を変えれば、立派に獲得された能力なのかもしれないではないか。社会的弱者などと親切を装った、体のいい強制退去を目論む、企業、政策目線からの一面的な評価に甘んじる必要など、ないのかも知れないね。