心臓とウンコ

片腕の男 F6 2011

絵は自分の心臓だと思っていた。

最近はそれが間違いだとは思わないが、毎日心臓の鼓動を意識しながら暮らすわけではないように、そんな風に思いこまないようにしようと考えている。

そんな考え方、感じ方が自分を深化させると、いつの間にか思いこんでいたのかもしれない。本屋で平棚を目でなぞっていると、ある本の帯に「迷っている時は、自分にとってより不利な選択をする」という言葉が目に入った。いくつかある章立てのうち、耳目を引きそうないくつかを抜き出してアピールする、いつものやり方なのだが、その時々の自分の心境や関心によってひょいと目を引かれることがある。つまり、それが今の心境を反映しているということになる。

ナショナル・ジオグラフィックという雑誌が、「世界のどこでも生き残るためのサバイバル技術」という別冊を出した。その中にも確か同じようなことが書いてあった。「迷った時は選択をせず、しばらく待て」。迷いの中では視野が狭くなり、本来ありえたはずの選択肢が頭から消えてしまうということだった(特に暗い中での選択はしてはならないとある)。

一言でいえば余裕が必要だということだろう。どんなに追い詰められても、というよりそういう状況であればあるほど、「動かない余裕」が大切だということだ。これは分かっていても難しい。いっそ選択肢が無い、一つしか道が無いと云う時には、人は迷わなくなり、心にも余裕が生まれるものだとも言う。

絵が自分の心臓だ、などと思い込むほど迷いは深くなりそうな気がしてきた。それを拝むように大事にし過ぎては、ガチガチになってかえって心臓を悪くしそうだ。逆に「絵は自分のウンコのようなものだ」と思えたら、どんどん排出、つまり制作できるのかも知れない。心臓とウンコではえらい違いだが、死んで化石になればどちらも似たようなものではなかろうか。

1991年イタリア・アルプスの氷河で5300年前(新石器時代)の男のミイラが発見された。通称アイスマンだ。昨年11月にあらためて解剖が行われ、その結果が今年の6月に一部発表された。そこで特に注目されたのは、アイスマンの体そのものより、その胃の中身だった。

人や物の価値は後世が決める。ウンコだって貴重な学術資料にもなり得るし、一世一代の絵だと力んでみても、残るかどうかは後世が決めるということに違いはないということだ。

60歳からは余生?

新生(制作中) 変30 MX 2011

車を運転しながら、たまたまラジオをつけたら作家の森村誠一(懐かしい名前だ)が、60歳から先は余生だと、インタビューで話しているのが耳に飛び込んできた。

ということは60歳までに少なくともメインの何かを成し遂げていなければならないということなのか?あと1、2年で森村流の「余生」帯に入る自分としては、!!!とならざるを得ない。でも、今の今、実際に成し遂げたものなど「何も無い」というのが事実だし、怖ろしいことにその先も何も見えないまま。余生の「余」が、「あまり」の余、「余裕」の余だとしたら、私の人生はこの時点でゼロどころかマイナス人生だってことになってしまう。

確かにダ・ヴィンチ、ラファエロ、ピカソなどは皆60歳どころか30歳までには美術史的にも大きな業績を残している。森村氏自身もこれまで380冊だったかの本を書いてきたらしい(森村氏が何歳だったか忘れたが、60歳はとうに過ぎていると思う)。余生の間にあと50冊は書く、と言ったように記憶している。一生の間に一冊の本も書けない人がほとんどだと思うと、確かに怖ろしいほどの業績だと言えるだろう。

60歳に何か特別な意味があるとすれば、定年退職だろうか?でもそれはほぼサラリーマン限定の話だし、近年は定年もばらばらになってきているらしい。定年を一つのゴールとすれば、余生という考え方も生まれてくるが、森村流はどうもそうらしい。

では自分流は?うーん、これから考えるって言うんじゃ、ちとマズイとは思う。思うものの、急に何かを始めるわけにもいかず、結局はいまやっていることを続けていくことしか無いだろう。余生などととても言える心境ではない。ゴール無しの人生、終わった時がゴール。「余生」の無い生き方が自分流かな、と考えた。 2011/11/05

 

 

 

ウィリアム・ブレーク

ウィリアム・ブレーク 「ダンテに尋ねるベアトリーチェ」 水彩

ふとウィリアム・ブレークを思い出した。ウィリアム・ブレーク(1757-1827)は、非常に宗教色の強い作風の詩人・画家だ。版画職人でもあるらしい。彼の絵を初めて見たのは学生の頃、今から40年ほど前のこと。デッサンの狂っているような、ちょっと変わったデフォルメが印象に残ったが、詩人の余技だろうとタカをくくって、それ以上踏み込まなかった。

それから10年ほど経って、あるきっかけでイギリスに10日間ほど立ち寄れることになったので、イギリスの水彩画を少しだけ集中的に見ることにした。まずは常識的にコンスタブルとターナーが第一候補である。

まずはテートギャラリーへ。たまたま「ウィリアム・ブレーク展」が開催中。大した絵は無いだろうと思いつつも、ポスターを見ると何だか胸が騒ぐ。まあ同じ水彩でもあることだしと、少しだけ道草を食うことにした。これが思わぬ大正解。

ブレークの焼けるような熱い魂に触れた気がした。誇張ではなく、ほとばしる勢いに圧倒された。自分のやっていることはいかに気持の薄い態度であったかと打ちのめされる思いで、その作品群を見た。そのあとコンスタブルもターナーも確かに見たはずだが全く覚えていない。(東京でルオーのパッション全作品を見たときもそんな感じ。ルオー展会場から銀座の街へ出た時、街から色が無くなってしまったように感じたのを思い出す。)

最近まるで自分の絵に自信が持てなくなった(それはとても苦しいことだが、必ずしも悪いことばかりとは考えていない)。他人の真似をしているとは思わないが、五里霧中、どこに自分が居て、どこに向かって歩いているのか分からなくなったのだ。つい、どこかで他人のトレイルを辿りたくなる。そんな時、これからは「ブレークを見よ」と自分に言い聞かせよう。

ブレークの評価は高いが、万人に心地良い絵だとはとても思えない。息苦しいような、責められているような、誰しもそんな思いを少なからず感じさせられるに違いない。人によっては不快でさえあろう。それを突き破って進む、あの情熱。失ってはいけないものをいつも私に思い出させる絵なのである。  2011/10/28