講座終了に向けて

 

ソファーのヌード F8 ミクストメディア

大学での最後のヌード制作が今週で終了。十数年間にわたり、たくさんのモデルの方にお世話になりました。心からお礼を申し上げます。受講者の方々も実に熱心に描いて下さった。皆さんにも心からお礼を申し上げます。一生に一度しかない、かけがえのない時間を共に過ごさせていただきました。

また、多くの方に引き続き私の指導を受けたいとの希望を頂き、ありがたく感じております。大学のような整った環境は外では得難く、環境的な面で今後はいささか苦労するだろうと思いますが、ある面ではもっと率直に自分の考えを推し進めていけるという期待も持っています。

絵画というものが指導されるべきものかどうかの議論は別にして、受講されてきた方々が何を望んでいるのか、それに対して私がどう考えてきたか、これからどうしようというのかを簡単に述べておきたいと思います。実際は私自身の中に迷いも不確かな部分もあり、今ここで断定的に述べたとしても、より良いと思う方向へ転換していくことは幾らでもありうることだと思って読んで下さるようお願いいたします。

20年にわたって絵画講座を担当しましたが、初めは全くの手探り状態。私も講師などの経験は無く、ただ自分自身の、絵画観をそのままぶつけるだけでした。といえばメチャクチャな印象ですが、なまの絵描きの卵が思い惑い、右往左往するさまをまじかに眺める機会など滅多に無いことだという観点でみれば、ある意味貴重な経験を提供したかも知れません。でもまあ、講師としては掲げるビジョンも不明確で、まずは落第だったでしょう。

「絵画の技術・知識」については未消化ながら、出来るだけ伝えるように心がけてきたつもりです。いかに趣味であろうと、絵画の材料はそれぞれ物理的特性を持った実物であり、それを活かさなければ不必要な労力と無駄なお金をつぎこむことになるばかりでなく、作品自体をもより惨めな状態に貶める結果になってしまいます。そのうえ古今の天才達が作り上げてきた、絵画という技術的積み重ねの歴史そのものをも否定してしまいかねません。

大学の講座ですから、単にうまく描ければいいというのでは少し寂しいと思いました。寧ろうまく描けなくてもいいから、技術の習得を通して芸術に魅入られ、時には芸術の犠牲になっていった人々への想いや、造形表現への理解を深めることができたら、教養としても自らを豊かにすることになるのではないか。それが私の「技術指導」の目的の半分でした。具体的に言えば「模写」「古典技法」などがそれに当たります。「絵画の歴史」的に言えば模写は絵画の勉強そのものと言っても、あながち見当違いではないのです。模写ばかりのクラスを作っても良かったなと今でも思っています。一般の「美術史」のようなものは私の能力を超えており、あくまで技術の範囲にとどまってきたつもりです。

受講者の皆さんにとって、「少しは上手く描けるようになりたい」「他人に自慢できるような絵を描けるようになりたい」という欲求は当然のことです。ここは「絵画講座」であって「美術史」講座ではありません。制作上の具体的な技術指導をするのですから、それを求めて当然です。いろんなケースを想定し、最も安易で、最も効率的な方法を私なりにいろいろ考案しました。「1.2.3ステップ法」(油彩)「明暗重視による構成」(水彩)などがそれに当たります。技術指導の目的の半分以上はこのことに費やしています。

でも、満足のいく結果を得られた人はたぶん少数でしょう(実際にはすべての人がレベルアップしています。でも結果が希望のスピードについていけるはずはありません)。程度の差こそあれ、技術の習得には最低限の時間的、経済的コストがかかります。頭で理解できるようには体がついていかない場合もあったでしょう。若い頃より余計に時間が必要ですが、現実は厳しい面があります。

これからも基本的な考え方は変わりません。これまでの方法論が間違っているとも考えていません。それでも「写生的な絵」への直接的な技術指導から「絵画的な」絵へ、今よりさらに軸足を移してもらおうとは思っています。「写生的な絵」を否定することなど誰もできません。が、絵とは写生的なものだけでない、もっと大きく、広く、深い楽しみを持ったものです。そしてその中に自分自身が居ることが何より重要なことだと思っています。絵画としての自立性を保ちながら(単なる独りよがりを越えて)、それぞれの人生の結晶を絵画という形でも残せるようにしたい、そのお手伝いになればと考えています。

「ヘタでもいい」と言えるのは結果であって前提ではないと、私は考えています。それぞれ、生きた証として傑作の一枚を残す(傑作でなくては残らないのです!)。それを目標にしていきたいと思っています。   2012/2/18

 

 

 

タイムカプセル

12月のベゴニア  F6 水彩 2011

実家にいる弟から封書が届いた。ああ、例の書類が出来たのだな、と何気なく表を見ると宛名が息子の名前になっている。なんだろ?

弟の簡単な手紙とともに一枚の葉書きが入っていた、と見せてくれたのは、息子が小学校4年生の時に書いた、十年後の、二十歳の自分あての葉書きだった。十年後にも確実な住所を書きなさいと言われ、実家の住所を書いたのだ。自分としては必ず引っ越しをするに違いない(むしろ、して欲しい)との想いもそこに顔を出している。

弟も面食らったようだが、私たちはもちろん本人ももうすっかり忘れてしまっていたらしい。葉書きには三人で那須に行った時の写真が印刷してあった。三脚を使って自分で撮影し、自分でパソコンを使って印刷した葉書きに学校で文章を書いたという。

十年は短い。私たち親から見れば、子どもは図体ばかり大きくなるが中身はちっとも成長していないように見える。でも子どもがそれを書いたときは10歳。それまでの人生と同じ長さの未来など、遠い遠いかなたに違いない。私自身の記憶に照らしてもそうだ。

葉書きの最後に「お父さん、お母さんはどうしているかな。死んでいないといいけどな」とあった。子どもにとって、親は国よりも、社会よりも身近に、血の通う形で自分を守ってくれるかけがえのない存在だ。その存在なしに未来に夢を架けることはできない。親の不幸、不運、無能はそのまま子どもの未来に影を落とす。一瞬、自分はどんな傘をさしかけ、どんな影を投げてきたのだろうと心を探り見た。

東日本大震災で親を失った子どもたちはそうした影さえ失ったのだと、あらためて思う。「死んでいなければいいけどな」とは、子ども心にそんな現実を感じていることの表れでもある。十年後の今「お父さんがもう少し社会的にまともな人だったらなア」と不運を感じているかも知れない。

子どもは親を選べない。だからこそ子ども自身に理想が必要になるのだ。親を尊敬するという子どもを私は好まない(それ以前に尊敬されない)。(子どもから見て)親など飯と金さえ出してくれればそれで十分という存在だ。親を踏み台に、自分の世界を作って行ければそれで良い。私も10年後の自分へのタイムカプセルを残してみようかと思う。 2012/1/28

大湊(おおみなと)

海上自衛隊大湊基地2012正月

父の介護に通った病院から車で2分、海上自衛隊大湊総監部(60数年前の旧日本海軍大湊基地。太平洋戦争の幕開け、真珠湾攻撃への連合艦隊はここに集結したらしい)がある。現在は海上自衛隊の大湊・北海道方面司令部になっている。1月3日の夕方、久しぶりに穏やかな冬の日、病院の帰りに寄ってみた時の写真だ。

小学生の頃、海洋少年団というのがあった。やせっぽちでひよわだった私は「海の男」の強いイメージに魅かれて入団を熱望した。手旗信号などはすぐに覚えた(なぜか今でも覚えている)。白い将校服に憧れたのが今では夢のようだが、艦を見ると、今でもなんだかドキドキする。

私は戦争を知らない世代だ。でも子供の頃の親の話といえば戦争に関わった話が多かったように思う。戦後20年も経っていない時点では、まだ記憶も生々しかったに違いない。

国のため、親のため。そうやって自分自身を見つめることのできなかった祖父・親を見ていた。そんなこと真っ平御免、俺は俺流で生きるよ、と両親の心配を鼻で笑い飛ばしてきた自分が、いざ自分の子供に対してみると、なんだ俺もかと愕然とする。

基地のラッパが鳴った。ラッパのそれぞれの意味はもう忘れてしまった。   2012/1/16