久々のスケッチは

旧栃木県庁(ペン・水彩)  SM  2011

ご無沙汰。書くことが何にもなかったわけじゃない。ファクトはあり過ぎるほどあるが、最近はかなりの上にもかなりの気力を振り絞らないとアップできない。なんでこんなに落ち込むのか、すっかりマイナー思考に陥ってしまっているらしい。

久しぶりのスケッチ行。今回は27、8人の大所帯。全員と顔を合せなかった人もいたに違いない。場所は栃木市、蔵の町通り周辺の、いわゆる定番コースだ。東武動物公園から急行電車で40分足らず。たくさんの人が訪れるスケッチ初心者コースだ。が、初心者コースだからといって、できる作品まで初心者並みにならないのが「キャリアの違い」というもの。参加者は全員がベテラン。参加メンバーの作品を写真に撮っておかなかったのが失敗だった。

暑かった。むき出しにしていた腕が日焼けでカッカしている。ここ数日、寝不足、無気力、風邪気味の三つ揃えで、参加するのが少し億劫に感じるほどだったのに、参加者の元気と天気(良すぎ!)にほだされて、結局16枚も描けた。それも邪念無く。ありがとうと言うしかない。  2011/6/28

がんばろう、自分。

The man in shelter  210*270cm 2011

今年の晨春会展の出品作。「少しずつ、制作が進んでいます」でさわりだけ紹介した作品だ。シェルターの中で、ご丁寧にもカプセルに包まれている。見る人はきっと福島原発から空中に放散された放射能との関係を読み取るに違いない。

実は、カプセルのアイデアは「花粉症」対策のヘルメット?から。花粉はそれ自体が小さな一つの生命体。それが体の中に入り込む時、それぞれのDNAとの関係が、さまざまな問題(長い目で見れば必ずしも悪いとは限らないのだが)を引き起こす。時には進化との関係で、革新的あるいは破滅的な影響を与えないとも限らない。放射能のような単純な悪影響だけのものとはレベルが違うのだ。が、放射能問題は生活の問題、つまりお金のことがストレートに関わってくる。生活の深刻さに誰しもが他人事でなくなるから、つい、この絵と放射能を結びつけてしまうのだろう。

3月11日から既に100日以上経った。既に?いや、まだたったの100日しか経っていないのだ。復興だ、この機会に新しい産業構造にシフトせよ、未来への都市計画を云々・・。この国は悲しむ暇さえ与えてはくれないのだ。1年間くらい、国民すべてが喪に服すくらいの気持ちがどこからも生まれない国だ。こんなことをしていては日本経済が駄目になってしまう・・という経済界の声、それしか聞こえない政界の耳。石原幹事長、国民的ヒステリー状態というのはこういうことを指すのだよ、分かってないんだな。

悲しみは泣くことによって解消されるのだそうだ。泣く事のできない悲しみは、一生、心に焼き付けられてしまうという。思い切り泣くことで、はじめて心が解放され、生きる希望が自然に湧いてくるということは現代心理学の定説だ。なのに、マスコミやこの国のエリートたちはこんな常識も無い、というより発想が無い。金を与えれば悲しみは消えると思っているらしい。

がんばろう、日本。もう、やめてくれないか?君はもう、一人じゃない。それも止めてもらいたい。そうではなくて、もっと正直に、自分の胸に直接聞くことが大事なんじゃないか?震災でなくても、人にはいつもそれぞれの悲しみがある。だからこそ震災にも共感できるのだ。まずは小さく自分の心にエールを送ろう。「がんばろう、自分」って。

時間という宇宙

Astronaut (part) f4 (unfinished)

宇宙工学は、ある部分で最先端の部門でもあるし、見方によっては頭打ちの学問分野でもあるらしい。技術的な部分に関しては最先端の実験装置であり、学問的には基本的に古典的なニュートン力学の範囲に収まるからかな、と勝手に解釈している。

「叫ぶ男」(2008)からわずか3年で、地を這っていた男がいきなり宇宙へ行ったような絵だと思うだろう。確かに。でも、恐竜が滅んだ原因の一つの説として、巨大隕石が地球に衝突して出来た衝撃とその後の気候変動があげられているように、宇宙と恐竜はつながっている。そのように原始的・野性的な「這う男」と科学技術の粋「宇宙飛行士」は私の中では全然矛盾せずに重なり合っている。いや、むしろ同一視していると言ってよい。

昨年の「新生 №5」は両生類を思わせる胴長人体?だった。これも両生類→爬虫類→哺乳類→男?と私の中では→より、むしろ=のようにつながっている。どういう理屈でつながっているというのだ!と憤る人がいるかもしれない。たとえばこれらの動物は皆、地球の重力の影響を受けている。同じ時間をかけて進化し、体の構成元素もほぼ同じもので、その割合も驚くほど近い。感覚や神経だってそう大差無いだろう。つまり十分すぎるほどに共通項は大きい。どころか、違いなんてほんのちょっとだ、と私は感じているわけです。

光速より速いものが無い以上、タイムマシンで過去への旅行はできない。一方で私達はたとえば化石の中から恐竜のDNAを取り出せるところまで来ている。つまり、科学技術が一種のタイムマシンになったことになる。それは過去と現在を同じ次元に並べてみたい、という想像力の結果に違いない。時間や重力から想像力をほんの少し解放してみたいと思う。       2011/6/18