科学(技術)と(政治)利用

月に吠える(部分)  F10 2011

冥王星の背後に大きな惑星が迫ってきているらしい。最近になって発見された。まだかなり距離はあるようだが、数千年の周期を持つらしいその惑星は、太陽系の惑星周期にも影響を及ぼす可能性大という。

まさか地球とは衝突しまいが、月が回転を止めて常に同じ側を地球に向けているように、地球も常に太陽に同じ面を向けるようにならないとは言い切れない。あるいは一年が365日ではなくなることも可能性としてはゼロではない。

また太陽系の外側に、地球の水の100兆倍のさらに千倍の水を持つ惑星も発見された。これらの惑星は皆最近になって発見されている。惑星は(太陽のように自ら燃えて?いる恒星と違い)暗いため、これまでの技術レベルでは発見できなかったのだ。これからは新しい惑星がどんどん見つかってくるに違いない。

大震災ですっかり消し飛んでしまったが、あの大津波さえなかったら福島県のアクアマリン水族館(だったか?)がインドネシア海域で古代魚シーラカンスの巣を見つけ、生きたまま一匹を採集する予定になっていた。昨年までに生息域の一つをかなり狭いスペースにまで特定し、そこで生きたシーラカンスの水中映像を世界で初めて捉えることにも成功している。数匹が近い場所に同時にいる写真も含め、少なくとも異なる5匹の個体を撮影した。私も泳ぐシーラカンスを見たいと期待していた。

アルツハイマーがなぜ起きるかはまだ十分に解明されていないが、器質的な原因以外ではアミロイドβというタンパクが脳内に蓄積することが原因と言われ始めている(始まりはもう30年も前からだそうだが)。ごく最近になって日本のある大学が、脳内のある酵素が(名前は忘れた)不足すると、そのタンパクが蓄積するようになることを発見したらしい。その酵素の不足自体が脳の老化であるらしく、その酵素を発生させるか注入するかでアルツハイマーどころか脳の若返りにも通じることになる。それにも有酸素運動を毎日続けることが(間接的に)有効だと思われている。さもありなん。

宇宙も深海も私たちの脳内も、ほんとはまだまだ分からないことだらけだ。だが、これらの未知への探求はどれも個人のロマンだけでなく、純粋に科学(技術)的興味と厳しい検証によって裏付けられている。

NASAのスペースシャトル最終便が無事地球に帰還し、計画は終了した。原子力発電は安全神話が崩れ、日本だけでなく世界が不安な眼を向けている。宇宙利用計画も、原子力利用計画もある意味で最先端科学の一分野でありながら、どこかに曖昧な、信用ならないものを感じさせる。

アインシュタインはこう言ったという。「原子力の(平和)利用は出来ない。原子力そのものは科学者にとっては(理解は)簡単だが、利用は政治判断だからだ」。福島原発で未完成な科学技術ということが言われているが、本質は、政治や経済という人間的欲望の絡んだ危うさをどう見るかという、人間の知恵の問題ではないかと考えている。2011-8-8

一日の長さ

パンジー アクリル F10 2011

夏休みという感覚を自分自身では感じなくなっていた。子どもがまだ小学生の頃までは、夏休みとは彼らの宝石箱であり、そこに何か特別の価値あるものを入れてあげなくてはと、普段よりせわしい、少しばかり追いつめられた気持の方が強かったように思い出す。

それが、今年は突然自分自身が夏休みに入ってしまった。休みを取ろうという積極的なものではなく、無理やり採らされたわけでもない。 要するに突然何もする気が無くなってしまい、結果的に夏休みになってしまったのである。

どこかへスケッチの取材に行く気持も起きない。絵もまるっきり進まず、筆を持っても知らないうちに置いている。本を読むわけでも、テレビをみるわけでもない。ただぼんやりと汗をかいては水を飲み、食べては眠くなり、まあゴロゴロしているだけである。7月はあんなに毎晩お酒も飲んだのに、8月になったら目の前にお酒もあるのにまったく飲む気がしない。これはどういうことなのか?自分自身でも意味が分からず戸惑っている。熱があるとか体調が悪いわけでは全然ない。むしろ以前より体は健康的でさえあるようにさえ思う。

今朝は午前中と午後の2回も妻と喧嘩。ご多分にもれず夫婦喧嘩の理由などくだらないに決まっているのだが、2度目は6時間も大声を上げ、喉も疲れるほどイラついた。原因はウォーキング用の通気性の好いショートパンツ。チラシには白、黒、濃紺の3色。白は嫌だが黒か紺なら良いと言ったのだが、買ってきたのは白。あらためて白は好まない、黒か紺が良いというと、せっかく買ってきたから穿けという。それに白も初めは少し気に入っているようだったと無理強いする。白は汗で汚れて見えるし、同じ白でも少し白すぎる。別に買い替えなくてもいいが、それを穿きたくはない(から返品)と言うと、再び同じことを繰り返して無理強いする。何度か双方同じ言葉を繰り返しているうち、白でも黒でも同じではないか!と言い募るので私もとうとう爆発してしまった。馬鹿野郎!絵描きに向かって白でも黒でも同じとは俺を馬鹿にしてるのか!という具合の馬鹿試合。これを延々6時間もやる元気があるのに、絵を描く気力が起きないというのはどういうことなのだろう。今は一日が長くて仕方ない。結局ショートパンツはハサミでずたずたに切り裂いた。

子どもの頃は誰でもそうだろうが、一日が長かった。しかし年齢を重ねるにつれ一日が縮み、ひと月もあっという間、一年でさえ瞬く間に過ぎ去るような感覚だったのに、なぜかこの夏になって、急に一日がおそろしく長くなった。

子どもの頃の一日にはぎっしりとあらゆるものが詰め込まれ、疲れ果てて瞼が落ちるまでの、明日はあれをやろうという、興奮に満ちた長さだった。しかし、昨日、今日の一日の長さはそうではない。自分が何も出来ない、何も出来なくなってしまったことを、水面に映る自分の顔をじっと覗くことで思い知らされているような、薄っぺらく、じりじりするような一日の長さだ。ブログに書くようなこともそろそろ無くなってきた。2011/8/7

 

サボテン

窓辺のサボテン

わが窓辺にずっと腕立てをしつづけている。暑いときも風の時も、昼も夜もずっとこの格好。元の方はもう枯れかけて1、2年になる。なのにその先はそれ以上枯れることなく斜め上方に伸び続け、やがて重力に耐えられなくなって床に両手を?突いてしまった。大抵はそこから徐々に腐ってくるものだが、端がほんのちょっと枯れ色になっただけで一年以上この状態のままである。

何という種類かは分からないが、珍しいものでないことは確かだ。小さな鉢に5種類ほどのサボテンが寄せ植えになっているのを4、5年前に4、5百円で買った。青々とした奴はちっとも大きくならないが、何故か下半分が枯れかけたようなものだけが成長する。代謝の大きさの差なのだろうか。同じ鉢の中で、写真のサボテンだけが買った年の冬に殆ど枯れかけた。これまでの私の経験では、だいたいそのまま腐っていくのがほとんどだったが、翌年の夏には回復し、しかもわずかながら成長した。冬には再び駄目そうになりながら、次の夏には何と2本に増えた(写真には3本目が見える)。この小さな鉢の中で、これだけダイナミックな動きを見せるのはこいつだけ。

サボテンは案外好きだ。せっせと水をやらなくても済むというお手軽さだけではなく、どうやら棘が好きなのだと比較的最近思うようになった。

子どもの頃、青森県下北半島ではサボテンは非常に珍しかった。私の中ではサボテンは南国のイメージ、暑い岩石砂漠の象徴であった。そのサボテンが小学校の校長先生の官舎(田舎ではそう呼んでいた)の小さな玄関わきに植えて(鉢だったのかもしれない)あったのを、道草の途中で見つけてしまった。

うちわサボテンだったのは間違いない。うちわサボテンの表面には放射状に1センチもある大きく、長い針が数本ずつ固まってついている。その棘の塊と塊の間はつるっとした滑らかな面に見える。子どもはなぜかつるっとしたものに触りたがる。大きな棘の塊に注意しながら、そのつるりと「見える」表面を私は何気なく撫でてしまった。

危険ということのもうひとつ深い意味を、その時はじめて私は知った。つるりと見える部分には注意して見なければ分からないほど微細で、抜けやすい棘が塊ではなく、一面にかなりの頻度で突き立っている。長い針の目立つ危険の陰に、本当の危険が潜んでいることを子どもなりに意識させられた瞬間だ。ひりひりした、繊細な痛さに泣きながら家に帰った記憶は今も強く残っている。

そんなわけでサボテンが天敵のような存在になったのは当然だった。天敵だからうっかり触ったりしないよう、特に注意するようになったのかも知れない。いつの間にか、花が(滅多に)咲かないということも、人の肥育をほとんど要しないことも、厳しい環境に育つことも、人の手を刺すことも(サボテンが意図的に刺しているわけではないが)好ましいと思うようになったのは不思議な気がする。私のへそ曲がりな気性に合っていたのかも知れない、サボテンがへそ曲がりだとは全然思わないけれど。