絵画の技法

旅がらすの男(部分・制作中) F6 テンペラ

上の絵は 昨日の「シェルターの男」を少し進めたもの。テンペラ混合技法で制作中。絵を描くということについて、少なくとも現代においては精神性のみが重要視され、技法や画材などは重要なものとはほとんど見做されなくなっているようだ。

しかし実際には、絵を描こうと思い立って画材店を訪れた瞬間から、画材と技法は頭から離れなくなるに違いない。よく「絵なんて思った通りに描けばいいんだよ」「自由に伸び伸びかくこと」と言われる。私自身もおそらく数百回は口にしただろう。けれどそれができるのには、実はある条件を満たすことが必要なのである。

ある条件とは何か。一つは油絵の具に限ること。もう一つは画材に関する、特別に鋭い感性があること、だと思う。

油絵の具を選択すれば、ほぼ「思った通り」「自由に伸び伸び」は誰でも手に入れることが出来る。出来ないという人は「思った通り」が自分自身の中で曖昧なままなであることが原因。イメージをきちんと確認すれば、ほぼ誰でもその人なりの「思った通り」が実現されるはずだ。「自由に・・」は、・・ネバナラヌを振り捨てられるかどうかだ。いずれにしても本人が問題で、画材については万能だと言っていい。

ところが、油絵の具以外ではたとえば最も使いなれているはずの鉛筆や水彩絵の具でさえ、思い通りに伸び伸び描ける人は稀だ。ましてや日本画やテンペラ、フレスコなどと言うに至っては、日常的な想像ではまるでついていけない。「特別な感性」のある人だけが、その基本的な性質だけを参考に、技法にまで想像力を届かせることが出来るだろう。

つまり、油絵以外はどれも技法的な制約をかなり強く受け、どうしても技術に固まって「自由に・・」とはなりにくいということだ。これはプロの作家でも変わらない。

けれど作品には精神性こそが大事で、技法など重要なことではない、というのはやはり正しいと私は思う。つまり、油絵以外の画材を「運命的に」選択したならば、その技法を徹底的にやりぬき、まるで無意識であるかのように扱えるようになる以外にない。絵画において最も重要なモノはイマジネーション。そこでは技法(への意識)など邪魔なのだ。

そのことを最近になって思い出した。そういえば今日も暑い日だった。室温36度。終戦記念日。甲子園の高校野球は青森の光星学院がかろうじてベスト8に進み、奈良智弁学園が9回のツーアウトから対横浜高校1-4を9-4にひっくり返した。世の中は予想外、想定外があることの方が普通なのだということも。   2011/8/15

 

若さについて

シェルターの男(制作中)  F6  テンペラ

最近テンペラを再び基本からやり直している(原則からと言った方が、より正確)ことは前に書いた。そして、我ながらすごいなと、少し自分を見直してもいる。

私がテンペラの作品を初めて制作したのは1981年だから、今年は30周年にあたる。すごいというのは、最初からこの技法を自分流に造り変えていることだ。テンペラに無知で、試行錯誤しながらだったことがその源だが、今あらためてテンペラの原則を確認しながら描いてみると、当時の直感がことごとく、極めて正確なことに少し驚く。

若さだと思う。もしも基本というものを学校などで教わっていたら、多分習った通りのやり方で描いていただろう(それはそれで間違いないことだ)。画集を見ても、作品の現物を見ても、技法書を読んでも、肝心なところは分からない。結局は今ある知識を総動員して想像をめぐらし、推理して、実際に試してみるしかない。絵を描くということは、そういう実際を体験しながら、自分独自の作品を作っていくことだということを、まさに地でいったことになる。その直感力が今より格段にシャープだ。感性が若かったのだと思う。

反面、本当の技術の奥深さは、直感だけでは掴みきれない部分がある。若い分だけ、思考も知識の総体も不十分で、本物を知らない、独りよがりの怖さもある。でもそれでいいのかも知れない。結局はどんなかたちになろうと、自分の身の丈しか表現できるはずはなく、またそれで十分なはずだから。

いろいろ世事に振り回される。生きている以上誰しも避けられないことだが、年を取るとあれこれ先回りして考えることが出来るようになり、そのことが逆に自分を規定してしまうことにもなる。想定外のことは考えない、思考停止状態になってしまうのだ。若さの特権は想定外のことをまるで当然のように想定することでもある。ちょっと話が逸れるが、日本の社会も想定内のことばかり考えるようになっているように見える。若い人が住みづらい国になるわけだ。

中川一政が男は50代、60代が一番弱い、と言った。その理由は子どもの教育と親の面倒と自分の家庭と仕事のすべてが一人の肩にのしかかってくるからだという。確かに。60を過ぎればかえって若くなる、とも言っている。私の周りを見ても、のびのびと自己主張の絵を描ける画家は確かにその年代あたりからかも知れない。今の苦しみが60過ぎてから活きてくることを信じる以外に、今はないようだ。 2011/8/14

暑い夏の冷や汗

習作  アクリル  F8  2011

今日も暑い日だった。一日中汗の中にいる気分だ。我が家は3人家族でクーラーが3台。つまり各々が自分専用に使おうと思えば使えるのだが、この節電ムードが影響しているのか、暗黙に一度に2台までと了解がなされているようだ。一人は受験生なのでこれが最優先されているのは、まあ仕方ないとして、もう一台はお互い顔を見合せないようにして、ちゃっかり使うようになっている。3人とも室温は29度設定。我慢しているわけではなく、28度では何だか寒い気がするからだ。

明日はもっと暑いという。どこかの天気予報では40度越えの話も出ていた。昨日は長崎原爆の日。原爆資料館でみたたくさんの写真を思い出した。夜、NHKで長崎での占領軍司令官ビクター・デルノアの報道特集を見た。彼はドイツでも戦い、ナチスの所業を見てアメリカの正義を確信していたにも関わらず、長崎で原爆の惨状を目の当たりにし、その確信が揺らいでしまった。原爆は二度と使ってはいけない。トルーマンの決定は誤りだったという言葉が残っている、という内容だった。彼は確かレバノンの生まれだと言っていた。生粋のアメリカ人ではないところに、この透徹した視点が生まれたのではないかと感じた。

イギリスでは黒人と若い人の失業問題への不満(20代以下の失業率約20%!)から、警官による黒人青年の射殺をきっかけに暴動が起きている。借金のためにアメリカの国債が信用を失い始め、いやアメリカだけでなく、どの国も借金だらけ、景気も悪く、失業者が溢れているのに、金融世界のお金だけがジャブジャブと社会、地球上に余っているという異常さ。資本主義の終わりなのか?日本をみるとそれだけでなく、政党政治そのものが終わりを迎えているようにも見える。