自然体、とは言うけれど

女装する男性タレントが急に増えた、気がする。その逆もいるのだろうが、女装タレントの方が目立っている。

タレントでなくても、街中のリサイクル・ショップなどでも時々見かける。LGBTなどの知識がなくても、たぶん社会的にも認知され始めていると感じ、本人にとってその方が少しは自然体に近い気がするのだろう。

自然体が良い、と社会のあらゆる分野で言われている。けれど、一方で社会というものは、猿や鳥、蜂の世界でさえ、自分勝手なはみ出しを許さないものだ。規範からのはみ出しを許すことは、時に全体の死をもたらすことでもあるからだ。

とすれば、自然体(自分流に生きる)ということは、相当な覚悟がないとできないってことだ。或いは阿保になるか。「ちょこっと」自然体(の真似ごと)をする程度が自然体か。

ポジティブにすることば

Flower

「揺るがない」「ブレない」のが一つの褒め言葉でもあるような。一方で「常に変化し続ける」「革新」も褒め言葉であるような。

こういうマスコミ言葉を使っていると、つい、「ねばならぬ」と思い込んで、自分を縛ってしまう。絶対揺るがない人はただの石頭だし、変化し続けるなんて不可能だ。口にしない方が安全なことばだ。

反対に、〜でも良い、〜もある、と広く鷹揚な(時にいい加減に)ことばを使うと、気持が楽になり、前向きになる。

「前を向く」もマスコミことばだ。変なプラスイメージがくっついている。「時には後ろ向きでも良い」が自然で良い。

ヒトはまだまだ愚かに違いない

権現堂桜堤2017/4/2 14:00

権現堂桜堤。木によっては五分咲きだが、全体としては二分も咲いているだろうか?でも、咲き始めると一気だから、見頃は来週水曜日だな、きっと。

花見客はすでに満開。駐車場もびっしり。道も渋滞気味。ヒトは賢いのか、バカなのか。のこのこ出かけても、桜咲いてないから焼きそば、ビールと駐車料金払って菜の花を見て帰る人もいれば、沿道の子どもの作った(ブサイクでちっちゃい)お握りが一個150円で売れていたりする(商人への道はもう始まっている)。

権現堂の桜は染井吉野。桜を植えるのも交配するのも伐(き)るのもヒトだから、桜の生殺与奪権はヒトが握り、ヒトが桜に対して上位に見える。それが錯覚。

桜の「繁殖戦略」を考えると、「改良」されようと何されようと、日本全国にどんどん仲間を増やしている、大勝利だ。サクラで金を儲けようと、損しようと桜の知ったことではない。桜の「魔力」にヒトの「知力」が自滅「させられて」いることにも気づかない。

(お互いに次の行動考えつつ)串のイカを食いながら彼氏(彼女)と手をつないで歩くカップルや、時期だからと無理して孫、娘に手を引かれながら、脚を引き摺りつつ歩くジジ・ババというヒト戦略のなんと阿呆なことか。

植物の地球的歴史の前には、人間などまだまだアホでしかないようだ。