家庭科の先生

男子厨房に立ち入らず。誰言ふとも知らず、世間にてはただ男の厨房仕事の手伝ひを厭へる分別ならん。我が家にては盛んに「男子、繁く厨房に立ち入りたまへ、helpしたまえ」と呼ばわれるも、男子何故かいずれも耳遠く、聞こえぬが難なり。

我が妻、「料理、洗濯、掃除」の先生也。「先生」の意、「不如意現実」。往時「唐変木」先生の遠隔子孫なり。先生その血濃厚なるを家人驚嘆す。是ダーウィン卿定理の奇跡の証左とならん。

以下に先生の偈、その一例を挙ぐ。料理:「料理は簡単を以って旨とすべし」簡単するに、お惣菜買えば佳し。是非もなし。洗濯:「洗濯の要は清潔にあり」。使い捨てに勝る清潔なし。先生曰く、「干せば花粉など浴び」ると言ひ、「以ての外」。至極ご尤も。掃除:先ず以って、ゴミを出さぬが要なり。塵芥の類、自然循環にて雲散すべし。人亦自然の一部なり。塵芥にて苦しむなどまさに自業自得とも心得、先ずは心療科にて「清潔病」なる病の心療を施すが肝心。ビニール袋など古来在らぬものにつきては、人知の及ぶところに在らず、勝手次第とのたまう。ただ神のみぞその行方知るところなり。

 

 

三宅一生 / Issei Miyake

これは何でしょう?

三宅一生(みやけいっせい)の服のデザイン。ショートのワンピース。下から頭を通し、上の丸い部分を肩まで折り返す。赤い部分が袖で、手の甲まで覆う。正面は谷折りを広げたようになる。

三宅一生は一枚の布を、「折る、穴を開ける、閉じる」という、極めて基本的、かつシンプルな手数だけで「服」という概念を満足させるデザインにチャレンジしてきた。いわば服飾のミニマリズムを目指してきたということ。しかも、同時にモダンデザインでなくてはならない、というハードルを自ら課して。

それが優れたデザインであるかどうかは技術的な問題。大事なのは何故一枚の布(でなくてはならない)なのか、それが正しい問いなのか、さらにそれをどう検証すべきなのかを「自ら考える」ことにある。三宅一生が、その辺のデザイナーと別格なのは、いまだその問いの只中に居ようとしていることにある。

 

期待などされずとも

10年も咲けなかった窓辺のサボテン

繻子蘭に続けとばかり、窓辺のサボテンに花が咲きそうだ。わが窓辺にては咲きたる記憶なし。買った時にはおそらく咲いていたと思うが、それ以来の開花だろう。少なくとも10年にはなる。小さな鉢にぎゅう詰めの寄せ植えだから、それぞれが成長する上でギリギリの凌ぎ合いがそういう結果になっているのだと思っていた。

それが今年咲く(だろう)とはどういうことか。確かに今年は何粒か肥料をあげたかも知れない。でも、今年だけでもない。寄せ植えの一部を他の鉢に移したら、短期間ではるかに大きく太く育った。依然としてこの鉢がぎゅう詰めの、育ちにくい環境であることは間違いない。

当然のごとく花など期待していなかった。サボテンに意思があって、無理やり咲いてみせようとしているわけではなかろうが、生き物はこうしていつも(咲く)準備はしているのだな、とは感じた。