感覚の墓標 / Grave-postmark of the senses

ニュースやネット、本などからの情報を眺めていると、世界が身近で、よく知っているもののような錯覚を覚える。でも実際は、事実のようではあるが不確か、他人と共有できることによって事実性を何となく納得しているだけのような気もする。

私たちが得る情報の多くは身体感覚を通したものではない。今はソファーの上で登山ができる。しかも地球の反対側に住んでいる人とチームになって登り、同じ時刻に頂上でハグしたりする。バーチャル・リアリティの話だが、すでにこちらの方が自分にとってリアルだという人もいる。

ほとんどの情報や知識は身体感覚など通さない。宇宙の知識、情報などその典型だ。豹やマグロが土星の輪を想像することなど恐らくあり得ない。他の動物に想像力がまったくないかどうかは知らないが、人間が最も身体感覚から遠い知識、情報を持っているのは間違いないだろう。

けれど、身体感覚を通した情報、知識は(それが間違ったものだとしても)特別なものとして私たちの記憶に残る。特別とは、その記憶が脳だけにとどまらないという意味だ。最近の科学では身体中のあらゆる細胞ばかりか、身体に潜む細菌、バクテリアとの間でさえ情報交換をしていることが解ってきた。

知識や情報の量を脳だけに頼るとき、私たちの想像力、感覚にも墓標が立てられることになりそうだ。

原子力規制委員会判断とは別に考える

柏崎刈羽原子力発電所の再稼動に規制委員会が事実上のOKを出した。新潟県知事の米山氏は、規制委員会の結論とは別に、県は独自に検証するとコメントした。

「私たちの安全をきちんと考えて欲しい」と、規制委員会に丸投げ、完全依存する考え方が多い中で、この考え方は重要だ。

「安全・安心」がよくセットで語られる。しかし安全と安心は全く次元の違うものだ。「安全」には基準があり、その基準をクリアすれば「その基準に従う限り、安全と言える」という技術的な意味だし、「安心」は個々人の心の問題になる。業界、政界でこの意味の違いを知らずに使っている人などいない。わざと混同するように仕向けているのではないか、とさえ思われる。

よく読むと規制委員会は「安全だ」などとは一言も言っていない。(規制委員会自身が作った)基準に合格したと言っているだけである。その基準自体、自分たちが納得できるものなのかどうか、納得できたとしてもそれを安全、安心と判断するかどうかは、そこに住む人々の判断である。知事が規制委員会とは別に検証すると述べたのは、そういう意味で正しい。

けれど、きっと「国の『権威』がOKしたのになぜ直ぐに再稼動させないのか!」と、経済界を中心に喚き立てる輩がわんさと出てくるに違いない。その人たちはそこに住む人々を犠牲にしてでも、金さえ稼げればいいと思っている人たちだ。福島の事故検証さえまともにできていない現状を踏まえ、委員会判断に丸投げせず、自分たちの安心は自分たちで判断するという知事の態度を、(そういう圧力に負けず)貫いて欲しいものだ。そして、態度だけでなくきちんとした検証ができるだけの人材をあつめ、謙虚に、誠実に公表し、最終判断を県民自身にしてもらうことを望んでいる。

発表能力について

日本、アメリカ、フランスの子どもの思考法と、それをかたちづくる国語教育に関する、専門家の面白い小論を読んだ。国際的な学力テストで、特に自分の考えを述べる記述的な分野で日本の子どもたちの順位が落ちている原因かなと、興味を持って読んだ。

それによると、日、米、仏の小学校での国語教育の目標と方法論に大きな違いがあるという。そしてその思考法が大学にまで繋がり、少なくとも国際的な発表とか、その評価において大きなハンディとなっているというのである。

例えば、私たちは①自分用の日記の書き方②親しい人への手紙の書き方③公的な手紙の書き方④エッセイ⑤課題レポート⑥発表文⑦記録文⑧詩⑨小説⑩論文…などと形式を書き分けられるだろうか?「見たこと、感じたことを『正直に』書く」しか教わってこなかったのではないだろうか?アメリカでは小学校低学年でも14もの文章形式(中、高では18)をそれぞれ「訓練」するという。フランスでは、語彙、動詞の活用など、文法の理解を徹底するという。それが彼らの常識らしい。

能力的な問題ではなく、方法論の問題だ。「自在に文章を操り、自分の主張をきちんと相手に伝える」には実際にはどうすればいいのか。日本では子どものときこそ自由に、欧米では幼少時こそ基礎を最優先、という方法論の違いは、国語教育に留まらず、大人になってからの思考法にまで繋がっていると読めた。