山狩り / Comb the forest

Rose in white

街は師走。井の中の蛙である私にとっては、世の中全体が忙しいように感じるが、そんなことなどあるはずがない。たぶん、これは一種のパニックなのだ。

クリスマス、年末の支払い、正月の準備の時期だよと、メディアも経済(界?)も、私たちを急かす。周囲と一緒に進まないと、何かを失ってしまうような気分を周到に準備するのだ。

「山狩り」という猟の仕方がある。勢子(せこ)と呼ばれる多くの追手と、それに追われてパニックになり、逃げ惑う獲物を待ち構える複数の討ち手とが一体になって行う、大規模な猟だ。「クリスマス〜!」「おせち、大丈夫か〜!」というおどろおどろしい声や鳴り物に私たち(じゃなかった、動物たちだ)は動揺し、一目散に、とにかく皆と一緒なら怖くないと、狩人たちの思い通りの方向へまとまって逃げて行く。狩人たちにはその夜の大宴会がもう目に浮かんでいる。

Apples in the Apple

日本人の感情はwet 、湿っている。極めてデリケートな一方、酒のようにその中で酔わせてしまう不思議な力がある。日本人の芸術といえばさらに湿って、酒の中でも濁り酒の酔いのようだ。

風土と言えば風土でもあろう。一方、乾いた砂に象徴される対極的な風土もある。そして、そこから生まれでる芸術のそれぞれの良さを、互いに認めることもできる。でも、よく考えてみると、なぜそのような理解というか、認め合うということが可能なのだろうか。何がそれを可能にするのだろうか。

たぶん造形という機能が、通路のようにその往来を可能にしているものの一つだ。その通路に面してひとつのドアがある。気づかずに通り過ぎてしまいそうな小さなドアだが、そこを開ければ見える世界は意外に広大だ。誰にも出入り自由で鍵はかかっていないのに、気づいてもせいぜい首を突っ込んで覗くだけで、何故かなかなか中へ入ろうとはしない、不思議なドア。

 

「傲慢」の視線 / Arrogant view

ヒトはオランウータンより賢いか、オウムより賢いか。私たちは普段意識せずに動物たちを見下している。私たちはオウムに言葉を教え、彼らがそれを覚えるのを見て満足感を覚える。けれど、オウムが私たちに教えていること、オランウータンが私たちに教えてくれることを受けとめ、オウムやオランウータンが満足できるように私たちはできるだろうか。

おそらく、「世界」と私たちが思っていることもそうなのかもしれない。ヒト対ヒト以外の動物(もしかして植物も)だけでなく、人間という範疇のなかでさえ、人種や地域、地位、経済力の有る無しに置き換えてみると、似たような視線がありそうに思う。

それを「人間の傲慢さ」と指弾することもまた、私たちの誰もがすることだが、だからといって決して謙虚になるわけでも、一歩進んで更に理解を深めようとするわけでもない。要するに口だけなのだ。本当はそれが「傲慢」の本質ではないかと思うのだが。

さて、芸術をこれにあてはめてみるとどうなるか、興味あるところである。