崖の習作

習作

崖(がけ)のイメージ。でコップの上半分が溶けて崖になっているよう。崖のイメージはもう40年もの間、時々だが繰り返し出て来る。(自分でも本当はよく解らないが)たぶん岬、断崖のイメージだと思う。

子どもの頃、家の前は砂浜だった(今も)。でも、水平線の右、左とも岬が突き出ていて、いずれも断崖絶壁。特に30km先にうっすらと見える、左側の岬は高さ300mを超えていて、近くに寄ることさえ危険な場所だ(私の大好きな所だが)。

あるいは滑りっこして遊んだ崖のイメージかも知れない。せいぜい十数mの泥の崖。そこに風のために低くねじくれた這松が生え、その上を手頃な板に乗って滑り落ちていく。毎日のように近所の子どもたちと擦り傷を見せ合っては笑いこけていた。崖を見るといつも親しい気持になるが、そのイメージも重なっているのかも知れない。

 

自由研究って…

△と◻︎ 習作

自由研究は夏恒例の子どもいじめ(言い過ぎだが)イベントだが、その是非は別に置くとして、最近は親が手伝うどころか、地域ぐるみ、近隣の大学、国の科学研究施設、観光地まで「自由研究に役立てて欲しい」と、それぞれ別の目的を隠しながらアピール合戦の様相だ。

いわば国ぐるみと言っていいほどの、この「自由研究」とは何なのだろうか。子どもを全員将来の研究者にしようとでもいうのだろうか。それにしてはやがて進学する大学の方がどうにもうすら寒い。日本を代表する東大などでは研究不正があとをたたず、世界の中での信頼性も急激に落下しているようだ。

優れた研究者が出てこそ、子どもたちも憧れる。終戦関連の記事、ドキュメンタリーでマスコミも賑やかだったが、そこで印象鮮やかだったのは、イケイケどんどんで戦争への意識を煽り、その行き着く先の軍や政治に関わる人々に、目的も手段も十分に思考を巡らせた跡がないことだった。目先の技術、工夫には優れたものがあっても、なぜ?を先へ先へと問い詰めていく、科学的思考が不思議なほど感じられないことだった。

すべての子どもが自由研究をするって、一種異様な感じだ。戦前の軍国少年育成と、ぴったり重なって、恐ろしげだ。