「傲慢」の視線 / Arrogant view

ヒトはオランウータンより賢いか、オウムより賢いか。私たちは普段意識せずに動物たちを見下している。私たちはオウムに言葉を教え、彼らがそれを覚えるのを見て満足感を覚える。けれど、オウムが私たちに教えていること、オランウータンが私たちに教えてくれることを受けとめ、オウムやオランウータンが満足できるように私たちはできるだろうか。

おそらく、「世界」と私たちが思っていることもそうなのかもしれない。ヒト対ヒト以外の動物(もしかして植物も)だけでなく、人間という範疇のなかでさえ、人種や地域、地位、経済力の有る無しに置き換えてみると、似たような視線がありそうに思う。

それを「人間の傲慢さ」と指弾することもまた、私たちの誰もがすることだが、だからといって決して謙虚になるわけでも、一歩進んで更に理解を深めようとするわけでもない。要するに口だけなのだ。本当はそれが「傲慢」の本質ではないかと思うのだが。

さて、芸術をこれにあてはめてみるとどうなるか、興味あるところである。

井の中の蛙 / Frog’s in the small pond

展覧会は今日で最終日。疲れもピーク。終了したら作品と一緒に車に乗って帰ってきたいところだが、なかなかそうもいかない。

今回の作品を、もう少し前へ進められそうなアイデアを一つ思いつき、数点の習作を始めた。アイデアは一つの手法に過ぎないが、ゴールのイメージがある以上、まずはそこに辿り着くのが大切だ。そこからしか、その先が見えない、峠道のようなものだから。

20年前は麓の小さな池で、それなりに満足していたらしい、小さな蛙。何を考えたか、池から出て広い世界へ飛び出した。しかも道を間違えたか、どうやら山へ向かっているらしい。山の向こうはともかくも、途中で鳥に食われないように、餌の虫も水も無く、干からびたミイラにならないことを祈ります。

 

展覧会で思うこと

11月6日から、銀座8丁目ギャラリー「風」でグループ展をしている。写真は出品作。他に小品2点。

展覧会をしたり、人の展覧会に行っていつも思うのは「この展覧会に、果たしてどんな意味があるのだろう」ということだ。作家個々がそのことをあまり深く考えていないことに、毎回呆然とする。やりさえすれば、描いてさえいれば作家だと思う人、或いは宣伝と割り切っている人もいる。

作品自体についてはよく考え、それなりに努力していることは分かる。でも、表現技術に終始し、表現という大きなものの中で、自分のありよう、表現のもう少し深い意味と広がりについては、どこかの本を読んだ程度の上っ面だけしか考えていないように見える。そんなこと考えていたら制作できないよ、という声が聞こえるが。