「日本の歴史」もそろそろラストページ

「飛ぶ男」(制作中)

8/16、雨。気温18° Tシャツ1枚では寒い。昨日から断続的に、時折大きな音を立てて降り続く。お墓も掃除し、実家の仏壇の扉を閉めた。お盆は終わり。あとは絵を描くだけだ。

終戦特集のTVで、いくつかの番組を見た。NHKの「ノモンハン事変」、戦争孤児にスポットを当てた「駅の子」。記事では戦争トラウマを扱ったものを読んだ。

常に繰り返されるのは「無責任」「不誠実」そして「現実より、幹部間の個人的人間関係優先」あるいは「組織優先のフリをした、卑しい利益主義」。「日本という国」の「意思決定」の曖昧さ、いい加減さだ。今もどこか変わっただろうか?

一言でその理由をいえば、教育の欠如だ。「日本の教育水準高いのでは?」と自画自賛的に思っている人は少なくない。確かに識字率などは高い(もっと低い所と比べてるだけだが)。けれど、論理的に考え、説明でき、行動できる能力は、驚くほど低い。大学の先生クラスでも論理がメチャクチャな人は幾らでもいる。大学の先生は、単なる専門家ではダメなのだということが、当の先生自体解らない。そういう連中に教わってくるのだから、大臣、国会議員もあの程度だし、そういう連中を選ぶ国民になるわけだ。頭のいい連中が、国民を「愚民化」してきたという説もあるが、論理的に考えれば、馬鹿げた説だということは簡単に理解できるはず。

「次の戦争」が起これば、「そのあとの日本」は平和になるだろう。日本という国は、「過去」としてしか存在しなくなるからだ。愚かな国は無くなることこそふさわしい。

母の名前

「飛ぶ男」(制作中)

「〇〇の家の人」という言い方がある。下北ではイエではなく、エとなる。

〇〇には、屋号が入ることもあるし、世帯主(昔なら家長か)やその妻の名前のこともあり、子どもどうしなら多くは子どもの名前になる。「タロウちゃんち」的言い方は、下北でも同じ。ただ、それが時々年代を越えても使われてしまうのが、ちょっと変わっている。マユミエ=マユミさんちはよく知っていたが、「真由美」さんが誰なのか、当時も分からなかったが、そのときから50年以上経った今でもそう呼ばれているのは驚きである。ほぼ、屋号化してしまっている。

家を人の名前で呼ぶのは、同姓の家が多いから。私の生まれた集落(150世帯ほど)では、ほぼ半分ずつが相内(あいない)と坂本。隣の集落(400世帯ほど)では伊勢田が4割、東田が3割くらい。こうなると苗字では区別できないから、人の名前で呼ぶ必要が生まれる。

多吉の家なら、タキチノイエ→タギジェという風に音便、方言化。母の父は相内長五郎だから、一家はチョウゴロウノイエ→チョゴロイエ→チョゴレと呼ばれていた。母は「チョゴレの長女」と呼ばれ、家族以外の誰も本名など呼ばない。チョゴレは地元ではダントツの漁師で、母はチョゴレの一員であることに大きな誇りを持っていた。

家族、親類をマキというが、性格や趣味など似た者もマキといい、私は直接チョゴレではなかったが、どこか漁師の気風があると思われたらしく、「チョゴレのマキ」であり、母も少しはそれを喜んでいた風であった。

ボウズウニと呼んでくれ

今日は下北もかなり暑い。お昼前に24°だったから、最高気温は26°にはなったと思われる。昨日、突然漁協から、今日(13日)ウニの解禁をするという放送があった。

今年は海が荒れ、7月に1回しか解禁していないという。すると、7月18日に送って貰ったウニはその時のだったのだろう(7/18「ウニ食べました」、7/19「ウニの歯」)。通常なら7月後半から8月半ばに、ウニは産卵期に入る。資源保護の観点からいえば、この時期にウニを採るのは自殺行為に等しい。それでも解禁するのは、お盆で帰ってくる息子、娘たちにお土産としてウニを持たせてやりたいという親たちの圧力が強いということなのだろう。

お盆準備でたまたま知人宅へ寄ったら、ちょうど海から帰ってきたところだった。採りたてのウニを少しだけ貰ってきた(写真)。黒く見えるムラサキウニの隣は浅瀬に生息する、棘の短いバフンウニ。地元では馬糞などと汚い呼び方はせず、坊主頭の意で、ボウズウニと呼ぶ。ムラサキウニより味がきりっと締まり、微妙で、ずっと美味しいが、市場で見かけることは滅多にない。

このウニは子どもや潜れない女性でも十分に採れるので、漁協に対するお母さんたちの解禁圧力は相当なものだったろう。ボウズウニと、ムラサキウニを適当にミックスして食べるのが至極。水分を取って、塩蔵したウニも絶品である。