プライバシーを買う時代

自分のプライバシーを、大金をかけて自分が買う。有名になるためではなく、誰にも知られないようになるために。

「監視社会」。あらゆるものがカメラはもちろん、ありとあらゆる手段、センサーを使って監視される社会。ジョージ・オーウェルの「1984」の時代が来た。

ペットの猫がいつ、どれだけの量のオシッコをし、どれだけの餌を食べ、どれだけ寝ていたか、飼い主が知ることができる。人でも動物でも、いつ、何を食べ、それが何カロリーか、いつ排便をし、病気になっていないかどうかを成分チェックできる。便利だ。

アメリカでは建物内で銃の発射音、熱などを感知して直ちに通報、監視カメラが犯人を追跡、送信し始めるシステムなどが導入されているという。安心。

便利と安心の裏側で、私たちはすでに半ば裸にされている。それを隠そうと思うなら、服を買い、人に知られない場所に隠れなければならないが、どんな服をどこで買い、どんな場所を探したかはもう誰でも知ることができるようになった。

私の心臓も一拍ごとに、ある会社に送信されている。私にとっては健康維持の為ではあるが、その会社にとってはビジネスの種でもある。そのデータは健康維持の代金のようなものだが、それが安いか高いかは私たちは知りようがない。分かっているのはそれが私たちには「無料」に見えるということだ。監視センサー、カメラの設置に、私たちはいちいち個人的にお金を出さずに「安心」を貰っているような気持ちになっている。

タダほど高いものはない、という言葉の真実性を味わわなくて済めば幸いだ。「人に知られないため」にこまめにデータを削除、覆面をして買い物…かえって目立ってしまう。結局はあらゆるデータを買い、破棄するしかない。どんな大金を使っても…もう無理か。

「虐待」が無くならない

幼児虐待(死)のニュースが無くならない。心が痛む。生きた動物(特に猫)を火あぶりにしたり、それを動画でネット上にアップして楽しむ同好者たちがいるらしいことも最近知った。どういうことなんだろうか。

そんなものは「表現の自由」という言葉で守るべきものではない。ISがイラクで行なった残虐行為をネットやテレビで報道するのには「告発」という意味があり、不快な画像ではあるけれど、広い意味では世界の人々に利益をもたらすという大義がある。しかし、そこでもその残虐性だけを楽しむ人がいないとは言い切れない。

動物虐待動画の、ネット上へのアップを禁止する動きはある意味当然だが、作る人、愛好する人がいる以上、それはイタチごっこになる。人間社会がもたらす、ひとつの病気に違いない。そのような病気の原因が単純明瞭であるはずはなく、単純に禁止することは、病気の原因を知らないまま対症療法だけするようなものだし、複雑であるだけに必要な部分まで棄ててしまうことにもなりかねない。悩ましいことだ。

金メダル30個?アホか

2020東京オリンピックで、またぞろ「金メダル30個」目標が出てきた。「金メダル」とか聞くたびに嫌になる。子供たちがマイクを向けられ、無邪気に「金メダル取ってほしい」「私も取れるようになりたい」。選手の地元の応援団、後援会のジッちゃん、バッちゃんも「金メダルが、ええなあ」。

選手は本当は「ただ頑張る」以外にないのだが、その声に押されて「金メダル目指して」と言わざるを得ない。しかも、メダルを取れば取ったで「皆さんへの感謝の言葉を」とマスコミに促され続け、自分が頑張ったことへの実感を噛みしめている余裕もない。確かにメダルを取るには、周りの大きなサポートが不可欠だし、その力が小さくないのは事実だが、「感謝を」催促したり、サポート側の力を誇示したりするのは、エゴ丸出しで恥ずかしいことだ、ということが解らないらしい。スポーツの側にいながら、スポーツを理解できていない。それを毎度のように見せつけられるのも嫌だ。

スポーツの本当の美しさはギリギリの挑戦にある。戦うのは相手ではなく、自分の「限界」だ。そういう意味で、すべての選手が同じラインに立っているし、そこが私たちの人生と重なり合うものでもある。だから共感することができ、感動するのだ。選手間の順位や勝ち負けなど、本当はどうでもいいことなのだ。ウサギが亀に駆けっこで勝ったって、感動などするわけがない。

私は陸上競技や水泳が好きだ。それは選手全員が等しく、タイムという非情な壁に挑まざるを得ないから。タイムのいい順に準決勝、決勝と進んでいくけれど、それはスポーツをメダルレースというビジネスにするための運営上のうまい方法であって、私たちはそれにすっかり乗せられ、そういうものだと思い込まされてしまっている。

金メダルがスポーツを不純なものにしている。そんなものはやめるべきだ(といっても益々さかんになるだろうが)。スポーツに限らず、賞というものの本質はそういうものだと知るべきだ。本人の「一時的な目標」として、大いに活用するうちは良い。けれど、それを選手に目的化させてしまうマスコミ、それに騙されている私たちのアホさの罪は軽くない。