頭痛

久しぶりに書く。やりにくい。字体も気に入らない。自分のブログなのに、「ようこそ〇〇さん、初めての方はこちら」と案内されて、自分の部屋へ行く感じ。「これがあなたの部屋でしたね」「へー、そうなんですか…私の部屋って。ところでここは誰の部屋なんですか?」。

毎日頭が痛い。ガンガンではなく、ズキズキでもなく、ズッキーンでもない。脳膜の内側に、小さなトゲがビッシリ生えた膜がある、と言ったら近いかもしれない。毎日、ヒリヒリ、チクチクだが、うっかりすると慣れてしまって、気づかないことさえある。それで何ができなくなるとかいう具体例が無いが、それがなければやれるはずの何かが事前に奪われているような。そんな頭痛だ。もう何年も続く。

「頭内爆発音症候群」。ほとんどの人は聞いたこともないと思う。頭の中で(現実には無い)爆発音がする。眠れない、驚く、恐怖感が出る。初めは現実の音だと思って、その度に何事が起きたかと家の外に飛び出した。そのうちにそれは自分の脳が作った音だとわかってきたが、ではどうするかという対策がない。特に眠る時はそれが続けさまに聞こえて、眠ることができない。偶然病名がわかって医師に告げたら、最初は医師も知らなかった。症状は今も続くが、病名がわかっただけで心の負担が軽くなり、音にも驚かなくなってきたが、それ自体は頭痛ではない。

頭痛は続く。今は朝。気持ちよく目が覚める、すると頭が痛くなる。ズキズキでもガンガンでも、ズッキーンでもない。頭の上半分を枕の上に置いたまま出かけたら、どんなにスッキリするかなー、と思う。

そんなことは二度と御免だ

美味しいご飯はうれしい。そんな企画、「家族が喜ぶレシピ」紹介アプリがびっしり。

私も見る。でも、はっきり言えば「御免だね」。美味しいご飯は、1人で作って、1人だけで黙々味わうに限る、少なくともこの国、日本では。「1人で食べても美味しくない」なんて、実によく考えられた女性蔑視の「国宝」的表現だわね。日本という国は、そんな風に女性を「奴隷であることに喜びを感じ(させ)る」教育に実に巧みな国だ。

感謝などされなくてもいい。生きているうちに、小さくても幸せを味わえる方がいいじゃないか。そんな日はもう二度と来ないんだし。

「家族の核」だった、なんて墓の前で線香一本供えられて、それがなんだっていうの?私は「核」だったって?違うでしょ、あなたたち一人一人が「私が核よ」と主張したから、私は一歩引いて「核のステージ」になったんでしょ?

でも、私はただの「被害者」じゃない。「ばかな」というおまけがつく。なんだかんだあるけれど、自分で自分を諦めたのは「自分」じゃないか。諦めるのは「大人になった」からじゃない、「ばか」になったからだ。それが今になってわかるなんて、悔しいじゃないか。

葛飾北斎と伊藤若冲

「奇想の系譜」展が東京都美術館で開催中だ。まだ見ていないが、ぜひ行ってみたい展覧会だ。学生の時(今から44年以上前)。本で読み、以来ずっと私の脳の片隅から消え去ることがなかった、一つの絵画論としての辻惟雄「奇想の系譜」。私の秘蔵書の一つだが、本展はこの本の「視覚化」だ。イメージとしては本の方が強いが、見ない理由はない。

昨年(一昨年?)、若冲展があったが、大評判になり、長蛇の列のおかげで見ることができなかった。見に行った人からの賞賛を聞いたり、図録を見せてもらいながら、「若冲なんてそれほどのもんじゃない」と改めて感じた。人気はマスコミが作り上げた虚像だ。

そう言うからといっても私は若冲の批判者ではなく、ファンの1人である。多くの人がその名を知らない頃から、私には「これが若冲だ」と言う、好きな絵があった。「群鶏図」。若冲にはそれ以上の絵はない。ところが先述の「若冲ブーム」があって、あたかも若冲が日本絵画を代表するかのような錯覚が(一時ファンの間で)起きている。私も若冲は好きであるが、北斎と並べようなどとは思わない。若冲狂いには悪いが、「格が違う」。だが、違っていいのである。それが若冲を貶めることには必ずしもならないことが、若冲たる所以だと理解できない人は「若冲ファン」を標榜するのをやめた方がいい。

曾我蕭白も楽しみだ。彼などある意味、「国際作家」北斎を超えている。彼らの天才性を見るということは、私たち真面目人間には真似のできない凄さを体感すると同時に、それが「私たちと同じ」人間のしでかしたことを見る嬉しさを感じる時間ではないかと、期待しているところ。