絵の価値、絵を描く価値

母の葬儀のあと、何人かの人に「今は何をやっているのか」と聞かれた。「昔も今も絵を描いています」「売れるのか」「今は売る気がない」「それでは絵を描くのは無駄ではないか」「楽しいのはいいが、それで生活できなくては何にもならないではないか」。

説明などする気もないが、絵の道具もないし、暇だから話し相手になってやった。「酒は好きですか」「結構飲む」「それでお金が入りますか」「馬鹿ではないか。酒はお金を出して買うに決まっている」「酒は身体に悪いでしょう」「それはそうだが、ストレス解消でもあるし」「ストレス解消はいいが、それで体を壊し、お金もかかるのは無駄ではないか」。そこまで言うと、たいてい相手は私の意図が解って、突然攻撃的になる。

「だいたい芸術なんて高尚なフリをしているだけで、社会の何の役にも立たない」「芸術がわかるんですか」「何の役にも立たないかどうか、どうやって確かめたんです?」「酒が体、特に脳みそに悪いのは証明済だけど」。まあこれ以上は、仮に腕力に自信があってもやめておく。

「目先の役に立つものは危険だ」と私は思っている。例えばきれいな空気、静かな環境、そういうものはすぐに役に立つものではない。が、「空気をきれいにする機械」「静かな環境を整える会社」、そういう「役に立つモノ」には私の中の警戒警報が鳴る。絵を描くこと、絵を見ることは、きれいな空気や静かな環境のようなものだと考えている。

母の死

母が亡くなった。5月30日23:57分、ほぼ真夜中だ。私一人が病院に泊まり込み、ぜいぜいと激し息遣いの母に付き添っていた(はずだった)。

けれど、私はただ木偶の坊のように、傍らに居たというだけで、付添いの役目を果たせていなかった。ナースセンターでモニタリングしているという思い込みで、目の前にあるモニターのボタンを押して確認しようという考えがなぜか浮かばなかった。苦しそうだからと、看護士さんと頭や首の位置を変えたりしても、モニターを自分で見るという考えが浮かばなかった。やり方を知らなかったわけではない。ただボタンを押せばいい。現に心停止、呼吸停止になったと言われて、初めてそれを思い出しボタンを押し、「判定不能」の文字を見たのだった。

結局、最後が近くなってきたら弟と妹を呼び、死に目に合わせるという役目を果たせなかった。細かく看護士さんに処置をしてもらい、彼らがくる朝まで無事で居させる、という役目を果たせなかった。何のために病院に泊まり込んでいるのか、という自覚が足りない、一言で言えば馬鹿だとしか言いようがない。

栃ノ心

どうでもいいが、大相撲。関脇「栃ノ心」が今日(5/25)、横綱鶴竜に勝って10勝目、大関にカムバックできた。栃ノ心は私の好きな力士だが全然嬉しくない。立ち合い、変化しての「はたき込み」じゃ、彼だけではなく、ファンのプライドが泣く。栃ノ心「勝ててよかった」。そうなのか、明日からはもう栃ノ心を応援しない。