Animal welfare

「男」の習作

「Animal Welfare」って知ってる?「食べられる牛にも、気分良く飼われる権利がある」ってこと。「でも、結局人間に食べられることに変わりはない。そこまでいうなら俺たちを食べなきゃいいじゃないか」、というのが牛の気持だろうが、人間の考えはなかなか複雑だ。

「世界の人(と言ってもセレブに限るのだが)」は、極めて幸福に暮らしていた牛(最も肉と油のバランスが良くなっている)が突然、何故か原因不明の(苦しまない)死を遂げ、(もちろん「屠殺」だが、セレブはそのことは知らないことになっている)その牛(肉)に感謝と哀悼の意を捧げつつ、恋人と二人で、(なぜか最高の職人によって焼かれた)その肉を彼らの美しい唇と歯と舌に運ばざるを得ないという、羨ましいような「宿命」があるらしい。

もちろんジョークである。基本は動物愛護の精神だ。そこから発展して、たとえ食用を目的に養殖されている動物でも、できるだけの尊厳と環境改善の努力を彼らのために為すべきだ、という考え方。無論そのこと自体に反対する理由はない。けれど、「ストレスのない状態で飼われた牛、豚、鶏の肉は、そうでないものより一層美味しい」と、私の日本的な耳には聴こえてしまう。Animal Welfare という語自体、建前といえば建前だが、そのおおもとはキリスト教的世界観にあるのだろうと想像はつく。

前回の「国際捕鯨委員会CWEからの日本の脱退」と繋がる話題。日本(政府)はこの「Animal welfare」を、私のような感覚で捉えているのではないかと想像する。相手はキリスト教的「動物愛護」の国内、世界世論に配慮しているのだと考えなければならない。数値的な正確さを言い募れば募るほど、お互いの距離は開いていく。「モリを撃ち込まれたら、痛くて、苦しいだろう?その痛みが分からないのか?」と彼等は考えているのに、鯨の頭数の回復だけを、口を酸っぱくして言っても、最初から平行線だということが解っていないのではないか。まずは、彼らの「Animal welfare」を謙虚に理解してみることが、大切かと思う。

「日本的」独善はダメ

「西洋梨 」         テンペラ+アキーラ

日本が国際捕鯨委員会「CWE」を脱退するつもりだ、というニュースに唖然とした(2018/12/20)。私は鯨肉を食べないから関係ないと思ってる人が大半だろうが、そういう次元の問題ではない。

日本は鯨を商業捕鯨するための資源調査と称して調査捕鯨を続けている。世界の目はその「資源調査」自体に疑いの目を持っている。なぜなら、毎回のように調査した後の鯨肉を特定の業者に卸した前科があるからだ。世界は、隠れた「営業」ではないかと疑っている。実際に鯨肉を一部業者に流通させているのだから、その疑いは当然だろう。脱退云々の前に、まずその疑いを晴らす努力がもっとなされるべきだ。

鯨を食べたことがある人、あるいは今も食べている人自体、日本全体ではおそらく1%もいないのではないか。私自身は子どもの頃のお弁当のおかずに鯨のベーコンを食べた時代を含め、百回くらいは食べている(捕鯨が禁止されている種類ではなく、ハマゴンドウとか、そういう種類だと思う。けれど反捕鯨国の人々にはイルカと同レベルで見られ、眉を顰められる)が、特別に美味しいものだと思ったことはない。個人的な好みは否定しないが、鯨の国際連盟「脱退」と一緒にしてはならない。

日本が主張するのは「独特の食文化の存在」と「(日本独自の調査による)十分な資源量の存在」だ。けれど、それを、全く鯨肉を食べようとしない人々に納得させるには、それ相当の覚悟(努力)が要る。そうした海外の人々への説得の努力をどこまでやったのか、その方法論を含め、極めて疑問だ。「言ったって無駄だ」という「当事者意識」。そして「ここまででも十分よくやった」という身内意識だけで判断するのは極めて危険だ。

国際連盟を脱退した日本の全権、松岡洋右が国際連盟総会議場を立ち去るシーンを思い出した人は私だけではない筈だ。「唯我独尊」は国際社会では「ご法度」だ。「短気は損気」、そんないい言葉も日本語にはある。文化の国際的理解には百年単位の時間がかかるという覚悟をもたなくてはならない。どんな場合でも、日本は世界と繋がっていなくては生きていけない国だ。

ルーベンス展

「ルーベンス展」チラシ

「ムンク」を見ようと上野へ寄った。目的は銀座での個展2つだったが、せっかくだし、ひょっとすると年末の忙しさに、絵など見ているヒマ人は世間にはいないのではないか、と電車に乗っているうちに思いついたのだった。

ところが、今日は東京都の「シルバーディ」、65歳以上無料とのこと。さすが東京の老人は目ざとい。30分待ちの札を持つ係員を見て、やめた。何というムンク人気。これで諦め3回目。がっかりして駅に戻る途中、西洋美術館の「ルーベンス展」に寄り道した。

やはり、全然話題に「なっていない」だけあって、内容は全然物足りない。「世界各国のルーベンスを集めた」とあるが、殆どが「工房」作で、確実にルーベンス作だと断言できるのは、彼自身の五歳の娘「クララ」を描いた小品(4号くらい)ほか数点だけ。チラシの写真、右側に背中を見せる豊満な金髪の女性の横顔。描き方の癖から見ても、金髪のテクニックからいっても少なくともその部分はルーベンスだ。けれど100%ムンクの「ムンク」展とは比較にならない。でも、「クララ」は何度見ても飽きない、いい絵だ。

それと、せっかく西洋美術館自体が世界遺産になったのに、コルビュジェの初期の設計の部分が全然見えない(見せない)のは何故なのか。展覧会より、建築の方が確かにいいのに、それを積極的に見せる工夫をしないのは大きな疑問だが、そもそもそんな話が全然聞こえて来ないのは、どういうことなんだろうな。