ルーティン

夢の中の林は枯れているのか、新生なのか、よく分からない

ルーティン(routin)とは個人的、習慣的で、仕事の前、仕事中に行う自分なりの段取り、流れのポイントとなる具体的なアクション、のようなもの。癖にも近いが、無意識な癖とは違い、意識的なものだ。2015年ラグビー・W杯で五郎丸選手のキック前の独特の指の動きが、「ルーティン」という言葉とともに日本の小学生の間でも流行した。

気がつくと、私にもたくさんのルーティンがある。その一つは、目覚めてもすぐには起きないこと。何もしない。目覚めの最初に頭に浮かぶ言葉、イメージを最も大事にする。メモを取ったりはしない。空想が広がり、1時間以上そうやっている時もある。

夢を見ることは大切だ。「夢を叶える」とかいう、その夢ではない。毎日見る夢、努力などとは無縁の「ただの夢」。脳の中では、覚醒時と睡眠時では働き方が違うらしい。何日もかかって苦しんでも結論の出ないことが、目覚めの瞬間にすんなり答えが出ていることがある。何度もそういう経験をして、以前はメモ帳を枕元に置いていたが、メモ帳を手に持ったり、ペンを持ったりしているうちにフッと消えてしまうこともままあり、じっとしていることに落ち着いた。

何にも浮かばない時は仕方がない。ヒョイと忘れてしまうこともしょっちゅう。そんな時はもう起きるしかない。血圧を測り、腹筋と脚の筋トレを60〜100回くらいずつやると程々に汗をかく。お腹も空いてくる。ぬるくなったお茶を一杯飲んでから朝食。50g(茶碗に半分くらい)程度のご飯に納豆1パック、うずらの卵2個。ヨーグルトを300g。朝食の間に頭の中で段取り。仕事を始めながらコーヒー一杯。一年中朝はこの繰り返し。こちらは立派な?ルーティンと言えるだろう。

何もしない、というのは本来ルーティンと言うべきではないかもしれないが、元々はメモを取るというアクションが発展?したものだから、この際は赦してもらいたい。ルーティンはいろいろな状況に応じて変わるものだ。目覚めたら読書、それから小一時間勉強して…というルーティンが私にあれば今頃はきっと…。「良い習慣を身につけましょう」と子どもの頃に教わったが、私には身につかなかった。

Greta ThunbergさんのSpeech

先日の国連でのグレタ・ツュンベルク(Greta Thunberg)さん(16歳、スェーデン)の国連でのスピーチ以来、NHK始め日本のマスコミがさかんに取り上げ始めている(それ以前にも単発的に取り上げてはいるが)。インターネットでニュースを見ている人には今更だが、取り上げないよりはいい、と思う。

ただ、取り上げ方にいささか問題がある。彼女の主張を一言でいえば「地球温暖化への『若い人からの最後通牒』」である。本来は彼女の言動の示す内容をこそ取り上げるべきだが、(日本の)マスコミが取り上げたい話題はもっぱら「スピーチの周辺」らしい。彼女の言動に賛意を示す世界各国での数百万人のデモのニュース、彼女自身のノーベル平和賞(候補)の話も本質的なものではなく、ましてや小泉環境大臣の「セクシー発言」、トランプ大統領の揶揄などのみみっちい話など、同列に話題にするほどの価値もないと私には思える。

ホッキョクグマの絶滅の話ではなく、彼女は「私たち(自身)の絶滅」の危機だと言っているのである。「聞き捨てならない」話ではないか?「(大人たちは)金の話と、永遠に経済成長が続くというおとぎ話」で(自分たち若者の)将来を奪い、ツケだけを払わせようとしている、とも訴えている。切実だ。温暖化に関する科学者の報告自体が事実かどうか疑問だという人でも、「(ツケを払わされる)若者たちはそう考えている」「(若者の)信頼に対する裏切りは決して許さない」という主張を、聞こえないふりをして過ごしていいのだろうか。小泉環境大臣の「環境問題はセクシーに(カッコよく)やるべきだ」などという、腑抜けた他人事のような気分とは大違いだ。

彼女のスピーチは5分足らず(しかも中学生程度の英語力で読める)。日本の国会でのだらだらとした、いかに責任を逃れるかに重点を置いた政府側答弁に比べ、なんという簡潔、明瞭、的確さだろう。5分には5分の内容しか盛り込めない。確かに彼女のスピーチには切実さとか、痛みの感情しかないかもしれない。けれど日本の(大臣)官僚答弁の「薄められるだけ薄めよう」という発想とは、正反対の方向を向いたスピーチだとは言える。

「深い」話

「飛ぶ男」2019 F10

「あの人の話は深い」などと言う、その「深い」とはどういうことなのだろうか。人の心理の奥を知っている、という意味もありそうだし、社会的なしがらみや身体と心、心と技術などとの微妙な機微をよく知っているという意味なども含まれるかもしれない。

要するに「1+1=2 」のように明快ではないが、どこかで誰もが納得できる真理につながっている感覚がある。これが「深い」話の第一条件だろう。けれど「混迷」もまた、よく似た感覚だ。あるいは「混迷」と思われた方が真理である場合だってあるかもしれない。それを私たちはどうやって嗅ぎ分けていけばいいのだろうか。

絵画教室で「ヴァリエーション」の話をした。一つのモチーフについて、幾つもの表現(法)を試みるということだ。「思考回路の経験値を増やす」と少し学校風な説明をしてしまった。経験値を増やす、たくさんの経験をすることは時間(時には体力も)もお金もかかり、書物などで勉強するより非効率で、頭の悪い人のやり方のように思う人がいるが、そうではないと思う。

偉人の一生を一冊の本で読むこと、60年、70年とかけて積み重ねた(人生)経験とせいぜい数日の読書とがイコールな筈はない。しかし、もちろん読書が無意味な筈はなく、自分の経験値が大きいほど読書から得られるものも大きいと感じるのは普通のことだ。絵画でも、制作経験が有ると無いでは、他人の作品を前にした時の問題意識が違う。「自分はこうしてきた」という経験と、無意識のうちに対照させて見るからに違いない。その対照上のずれが「なぜ?」につながり、その疑問への解決がまた自分の経験になる。そうした積み重ねが、他人である作者の内側からものを見る感覚につながり、他人である作者の経験を取り込むことにつながっていくと考えられる。

少し脱線した。結論から言えば、絵画を「深く」するには「ヴァリエーション」が非常に効果的だということだ。思考回路の経験値を増やすということは視点の多様化(単なる知織化の可能性もあるが)でもあり、その中から一つを選んで実際にやってみるという経験、決断がまた次の視点への契機になっていく。その巡り自体を「深化」と呼ぶのではないか、と私は考えているのである。