オンライン授業体験

Apple in apples  2020 oil on canvas

コロナ禍によって初めて体験したものはいくつもあり、どれも貴重なものだが、「オンライン授業体験」もそのひとつ。受ける側ではなく、する側として。

はじめは、「大変だ、どうしよう」という、個人的な、技術的な問題が主だった。デモ制作を考え、撮影し、文字入れ、ナレーションを構成、動画を編集して一本のビデオを作り、学生に配信する。学生からの質問等に応答する。最初の1回分(23分)の授業ビデオを作るのにも、まるまる3週間かかった。そもそも動画編集をしたことがなかったし、パソコンにプリインストールされているソフト以外に選択肢は無かったから、それは必ずしも私の不名誉でもないと思う。その後はだんだん慣れてきて、なんとか8回分くらいまでは準備できた。

ところが、非常事態宣言が、首都圏でも5/25を境にどうやら解除されそうな雲行きだ。解除されると、オンライン授業から従来の「対面授業」に戻る、だろう。でも、せっかくビデオの準備したのに〜、などとは思わない。やっぱり学生の顔を見ながらやった方が楽しいし、ビデオの準備をする過程でも、得たものは少なくなかったから。

解除について心配なことがある。せっかくオンラインでの(一部)授業が、可能なだけでなく寧ろ有効だということが、サッと忘れ去られるのではないかということ。オンラインでの(一部)会社経営が成り立つこと、出勤しない方が効率よく仕事できること等に、会社員自身が気づいたこと。それが「解除」によって以前の状態に戻る。そちらの方がむしろ問題ではないか?なんとなく、すべての文化的尺度で世界上位にいると錯覚していた日本人が、実はオンラインという視点では「先進国中ではずっと下だ」、という事実を「見なかったことに」してしまうこと。それらが心配だ。(感染症対策、重傷者の医療体制はまた別の次元の問題として)「オンライン」に関しては、もうオールド・エコノミストたちと同じ地面にいつまでも立つ意味はないのではないか、と考えさせてくれた私の「オンライン体験」です。

「非常事態宣言」やめるんだってよ

自転車での散歩から帰った直後、「政府が、愛知、福岡を含む39府県で非常事態宣言を解除する方向で諮問委員会にはかる見通し」という速報をネットで見た。前回のブログで書いたことが、だいぶ前倒しになったってわけだ。どうせ、一旦解除したって、また宣言するか(恥ずかしいからもうやらないだろうけど)、それに似たようなことをするに決まっている。その前に、もう「オレたち、二度目はどうする?」って、考えておかなくちゃ、ね。

今年の花々は、人が見ないせいか、いつもの年よりきれいな気がした。ここ数年、蕾まではいけても、ついに咲くことができなかった我が家の芍薬も、今年は2つも咲いてくれた。権現堂桜堤も今年の方が、いつもより綺麗だった気がする。庭のクリスマスローズも大輪のクレマチスも、もしかしてこれが最後?と思うほどに見事だった。

今朝は腰が痛くて、いつものように起きあがることができなかった。昨夜寝るまでは、何も異常はなかったのに。これも2年ぶり。午後は何とか動けるようになってきたので、自転車でぶらぶら一時間ほど散歩。一斉休校になってから、何度も同じ時刻に、同じところで、何か練習している二人の少女(たぶん中学生)を見かける。顔が見えるほど近くまで行ったことはないが、何となく心に残る風景だ。

帰りぎわ、やはりいつもの場所から、いつもの?少女の歌声が聞こえる。どこの家からなのか、路地からなのかは分からないが、歌の練習というのではなく、数人で遊びながら歌っている感じだな、と思う。偶然に何度か聞いただけだが、それでも、その子らがすくすく育って欲しい、と願わずにはいられない、美しく、幼い歌声だ。…だからこそ、……貪欲で、しかも馬鹿な政治家には、サッサと引っ込め!とみんなで言ってくれないかなあ。

「5月」を傷つけるやつ

今日は5月11日。快晴、暑い一日だった。今日もオンライン授業のための動画編集。前にも書いたが、オンライン授業というのは、カメラとマイクを前に置いて、普段通りを、(学生が全員眠っていると仮定して)「無人授業」としてやるのだと、多くの人は考えている。テレビでは「そんな」オンラインばかり写すから、そう思う人が大多数なのは仕方ない。

実際は、そういう、オンラインに都合のいい「講義授業」ばかりではないはずだ。例えば、目の見えない人に点字を教える講義をオンライン授業でどうやるのか?私には簡単には想像できない。もう少し一般的にしても、看護学生に「注射」の練習(するのかどうか、実際は知らないが)はどうやってオンラインにできるのか?ともかく政治家や評論家のように、なんでもオンラインでできそうに言うのは無知だし、そう思うのは幻想だ、ということ。どんな物事だって、一歩入ってみると、ことはそう単純ではない。

とはいっても、一歩家の外へ出れば、五月晴れ(さつきばれ)だろうと、五月雨(さみだれ)だろうと、やはり五月の自然があふれている。こんなときは登山がいいのではないか。「3密」は無いし、気分転換にも筋トレにもなるし、と思ったら「やめてくれ」だそうだ。「なんで?山ではほぼ誰にも会わないぜ?」と思ったら、山小屋はもちろん、テントでも設営区域が混み合うのだ、という。ネットで見ると、テントとテントがひしめき合っている「ように見える写真」が載っている。実際にテントを張ったことがある人なら、写真の印象と実際との間には、ソーシャル・ディスタント以上の距離があることを知っているはずだ。

本物の「山男」たちが何も言わないのに、私ごときが「登山がいい」などというのは控えるが、どこかで、「実態を知らない人たちが、さもそれが正しく、正義であるかのように言ってるぞ」とは思う。「自粛警察」なる新語も幅を利かせているそうな。何ですか、その「正義感」。本当に正義だと思うなら、「こそこそ」と張り紙したりせず、堂々と名前を名乗って「公的に抗議」したらどうですか。渋谷のハチ公もマスクさせれられたそうだ。これを、何の批判性もなくニュースで報道するNHKも(あるいはもっと罪の深い)「自粛警察」(行為)だと私は思う。(コロナ時でない)普段なら、これは「落書き」と同じ行為だと(当のNHK自身が)非難するはずだろうから。