水彩+パステル

「冬・午後」2019 F10 水彩・パステル

水彩+パステルという組み合わせで描くのが、ごく最近の試み。水彩とパステルの組み合わせ自体はごく一般的な方法なのに、自分の中では作例が少なかった。改めて始めてみると、両技法のいいとこ取りができるだけでなく、水彩、パステルどちらのハードルも低くなることがわかってきた。これはとても有用な発見だ。ぜひ多くの人に勧めたい。

ハードルが低くなるという意味は、例えば上の絵では、人物の顔を水彩で描くとき、パステルを使うことを前提にすると顔の色は赤黒い面でグルグルっと塗ってしまえばそれで十分。水彩だけで描くようなデリケートなテクニックなど不要。後はコンテで強い輪郭線、水彩で塗られた面より明るい色だけをパステルで、光を描くつもりで書けばよい。パステルは暗い色が苦手だが、そこを水彩で下塗りをしてもらうので非常に楽に描ける。パステルの色数もたくさん揃えずに済み、一石二鳥。

問題はパステルの定着力くらいかな。定着液でしっかり止めようとすると、パステルの鮮やかな色が沈んでしまう。ギリギリ最小限に留めておく方がよい。まあ、粉末状の絵具は落ちるものだと考え、あまり永久性にこだわらない方が楽しくできそうだ。

Apple-2

「Apple」 2019 F6  Oil on canvas

私の「Apple」の最初の登場は1980年代後半だから、少なくともすでに30年以上、中断しつつ続いている。今また新たにシリーズ化しそうな感じだが、ここらへんで言っておきたいのは、 「Apple=リンゴ」 と変換して欲しくないということ。

私はほぼ一年中、毎夕食後にリンゴを食べる。「りんご・リンゴ」は私にとって「実物」であって、単なるイメージではない。また、私はリンゴのことをふだん「Apple」とは呼ばない。だから、作品としての「Apple」 は私にとって、一つのかたちとしてのイメージ(抽象)であって、食べたりする実物の対象を描写しようとするものではない。「Apple」は「Apple」という、リンゴとは全く別物、次元の違うものだ、と考えて欲しいのである。

そう考えてもらえれば、この絵はすんなりと見たままに理解できる(はず)。全体としてはリンゴのようなかたちをしているが、よく見るとムキムキマンの男が、(マントのようでもあり、羽のようでもある「翼を持って」)飛んでいる絵が見えてくるかもしれない。それが「Apple」である。

実は、このような仕掛けの絵は世界中にずっと古い時代からあり、私もそれらを参考に、これまで何度も様々な試みを重ねてきた。けれど最近の「Apple」は(私自身の制作の中では)これまでのものとは明らかに違う意識がある。この先どうなっていくか、自分自身でも少し楽しみでもある。

Apple

「Apple」 2019 F8 Oil on canvas

ここ2ヶ月ほど、こんな絵を描き続けている。どんどんアイデアが浮かぶので、まだしばらくは続くだろう。もう一つ「種 Seed」というタイトルで、ムキムキマンの男を種の中に閉じ込めたような絵も続けている。ほとんど似たような絵なのだが、なぜかこちらはなかなかうまくいかない。

見た目は現代ふうの絵だが、描き方はあえて古典絵画の方法を採用している。つまり、グリザイユ(白黒の明暗の調子だけで下描きをすること)、次いでグラッシ(透明な色の層を薄く重ねること)と白を交互に重ねて色を深める画法のことである。現代絵画であろうと古典絵画であろうと、深く豊かな色彩表現にはこの方法が最適だと思うからだ。

私には私なりの絵画の理想像がある。そういうものを持つこと自体、絵画を限定することになるという批判はさておき、多くの画家たちもそれぞれの理想を実現すべく日々精進しているものだ、と私は思っている。そこまではいい。けれど、私の理想像には、それ自体の中に分裂的な矛盾を孕んでいて、それがここ20年も私自身を苦しめている。

今のところ、その矛盾を統合する方法には至らず、制作は矛盾の「どちらか一方を見ないことにする」ことによってのみ可能。両立を目指して、しばらくひどいうつ状態に陥った経験による。ごく最近では、それは矛盾ではなく、二つの全く異なった「それぞれの理想」と考えるべきではないか、などとも考える。赤道直下と南北両極のようなものか。もしそうならば、それを統合するということに何の意味もないのだが。