バカは死んでも治らない

コロナに蹂躙された4月の1ヶ月、私の生活は一変した。社会人になって、初めて「収入ゼロ」を体験した。最初は何にも感じなかった。「教室、休みになっちゃった。今までできなかったことを、この機会にできるようにしよう」的な、「チャンス」的な気分も無くはなかった。この機会に、表現の世界を少しだけ広げられるかも、と楽観的に思っていた。

今は全然違う。世界は明らかに変わった。何年も前から、友人と「ごく近い将来、日本はドラスティックに変わらざるを得なくなる。その時に(個人として)何ができるか、それが大事だよね」などと、お酒を飲みながらの、定番の話題だった。それが「今」来たのだと思う。多くの人の予想通りに。

コロナは単なるきっかけだ。(社会現象としては)近いうちに起こるべきだったことが、いま起こっている。それが「戦争」でなく、「コロナ」だったぶん、まだラッキーだと思う。これがもし戦争だったら、こんなもので済むはずはない。フランスのマクロン大統領、ドイツのメルケル首相共に「コロナに対する戦争状態」を口にしたのも、決して的外れではない。コロナ戦争後に、勝ち負けが現れる、という危機感の表れと取るべきだ。日本のような竹槍アタマでは勝てそうにないな。

5月も、ほぼ無収入に近くなった。いつまで続くか判らないが、おそらくそれほど長くはない。終息など到底できないが、国民の持久力が続かないはずだし、変化だけが商売ネタのマスコミが騒ぎ始めるはずだし、経済界が、コロナなどより会社が大事だと本音を吐き始めるはずだし、政府の財布の底が見えてくるはずだし、何より日本人特有の健忘症が蠢き始めるはずだから。そのあとに来る、二度目のコロナの時は、もう打つ手は何もないよ。政府が「二枚のマスク」の代わりに配るのは、安楽死用の注射だけ、かな。

数字の薄い「自粛要請」

「非常事態宣言」が1ヶ月近く延びて、5月末までとなった。4日の安倍首相の説明では、前回までの自粛効果があったのかなかったのか、そしてこの延長でどこまでが期待でき、そのそれぞれの段階に応じて、どういう対策を考えているのか、などが全然見えてこなかった。補正予算も、脳天気な、コロナが終わった後の観光刺激策などに、喫緊の医療費をカバーするお金の数倍〜数十倍のお金を計上するなど、目の前のことが本当に見えているのか疑わしい政策判断だ。

460億円以上という、莫大な予算を使っての「各世帯に布マスク2枚」。3人家族はどうするの?という話は早くからあったが、「とにかく何かやりゃあいいんでしょ」と言わんばかりの不毛な愚策。どれだけの国民が望んだか知らないが、10万円という金額算定の根拠と、その政策的意味との整合性の無さ。政府もバカだが、それを歓迎する国民もマスコミもバカだというしかない。金額云々ではなく、論理で考えられないという、脳の貧困の方がコロナよりずっと深刻だ。

コロナが明らかにしているのは、医療体制の脆弱だとか、そういう問題を越えて、いかに私たちがものを考えない国民か、ということなのではないか。「非常事態宣言が延長になりました」、ああそうですか、欲しがりません、コロナに勝つまでは。一億玉砕火の玉だ。5月5日現在東京都の感染者数4654人、人口13,951,781人(2020/3/13現在)。単純に計算して、感染率0.000333。ざっといえば1万人に3人(埼玉県は1万人に1人)。しかも退院した人も入れて、だ。東京都の死者数141人(5/5現在)を、やはり人口で割ってみると10万人に1人になる。ちなみに全国で最も交通事故死者の率が小さいのが東京都だが、2019年では約10万人に1人。自殺死亡率は15.7 (人口10万人あたり)と比べて、説得力ある数字なのか。今年度の自殺者は確実に増えるに違いない。

その一人に自分がなったら、それは大変だ。PCR検査をしないからだ、警戒したからその数字で済んでいる、などという言い方にも、ほんの少しだが一理はある。でも、それでも2ヶ月も半経済封鎖しなくてはならないという数字なのか?痛みを感じているのは、外出自粛を声高に言う人々とは別な人々なのではないか?感染予防そのものがいけないなどというのではない。ただ、このやり方そのものが「一世帯2枚」のマスクに象徴されているのではないか、と思う。

Silent Spring

春の道端は花がいっぱい
誰も見てなくても藤は咲く

もう1ヶ月半電車に乗っていない。美術館も図書館も閉まっているし、行くところがないからでもあるが、忙しいからでもある。大学もオンラインの授業をすることになり、そのための動画などの編集で、毎日10時間以上、パソコンの前から離れることができない。

「今年は動画編集できるようになりたいなー」なんて考えていたら、いきなりやらざるを得なくなった。「渡りに舟」どころか、岸辺からいきなり舟に引きずり込まれ、いきなり一人で舵を取りながら漕げ、といわれた感じ。しかも目の前に急流があるから、その前に岸につけろという。そんな無茶な、と思ったがすでに水の上だ。見よう見まねでやるしかない、と思ってはみたものの、やはり苦手は苦手。毎日ちょっとしたことでニッチもさっちも行かなくなる。でもなぜか、一晩寝ると、あら不思議、昨日のアレはなんだったのか。でも、急流はどんどん迫る。早くなんとかせねば、と考えだすと眠れない。

そんな時、田舎はいい。自転車で10分も行くと、もう畑や田んぼだらけ。すれ違う人もいないからマスクも顎の下にずらしたまま。道端には春の野草、花が満開だ。「イモカタバミ」も初めて知った。見れば確かにカタバミの葉のかたち。マメ科の花は「ヤハズノエンドウ」、別名カラスのエンドウだ。コオドリコソウも覚えた。タンポポはもちろん、菖蒲も藤も満開。でも、それを愛でる人がいない。ふと、レイチェル・カーソンの「サイレント・スプリング(沈黙の春)」を思い出した。

彼女は、DDTの薬害による自然界の物言わぬ死、鳥も歌わない、昆虫もいない世界を、「沈黙」というキーワードで環境破壊の恐ろしさを告発した。コロナで恐れ慄いている今は、鳥もいる、至るところで蝶も見る。川では鯉が跳ねているのも見た。でも、人がいない。別な意味での「沈黙の春」だと思った。コロナは仕方ない。けれど、この異常な騒ぎようはなんなのか。むしろ人災を拡大しているのではないか。おそらく日本では、コロナウィルスによる感染死より、経済的に追い詰められた自殺者の方が多くなるだろうと危惧している。4月中の収入、社会人になって以来、初めてゼロになりました。