秋来ぬと目にはさやかに…

「曼珠沙華」 2020.10.2 4:30pm, Japan

今日は暑かった。日中Tシャツ一枚で過ごしていたが、夕方自転車で散歩に出ると、数週間前の猛暑とはやはり違う。近くの公園の曼珠沙華に、夕陽が当たっていた。写真を撮っていると、そのうえを渡る風の音が、実に爽やか。思わず「秋来ぬと…」の歌を実感した(こちらは目にもさやかだが)。

昨日は月一回の俳句会があった。遊びの句会という甘い考えで、句会前日に無理やりこしらえるものだから、家族は「ねつ造俳句会」と読んでいる(他のメンバーには申し訳ない)。昨日10月1日は「中秋の名(満)月」で、俳句の兼題は「名(満)月」。

句会での最高点は、Sさんの雑詠「購買部文具とならぶ青みかん」。ほぼ満票だった。もちろん私も最高点をつけた。私自身はかなりひねくれているのを自覚しているので、選んでもらいたいと思う気持はほぼない(内容を理解しては貰いたいが)。しかし、最近はメンバーの方が慣れてきて、私のひねくれを、そう感じなくなっているらしいのがかえって気になる。

私の句は兼題に「満月や鯛の眼(まなこ)を吸ひにけり」。意味わからないはずだが、なぜか意外にウケた。先月は、現代日本の政治的無関心の風景をシャープに言い切った(はずの)、「疑心無き微笑の彼ら秋暑し」という自信作を提出したが、0点だった。

やっぱり、基本は描くことだ

「 Apple Rain 」  ペンのスケッチにパソコンで着色

今年は「プチ断捨離」をした。暑い中、自粛ムードで出かけることが少なくなり、部屋の狭さ(使わないものの多さ)を痛感したからだ(そのくせ、数日後には「アレ、なんで捨てちゃったかなー」と後悔したり)。その過程で、昔買い込んでおいた安物の紙類があちこちから現れてきた。

小さい頃は、落書きをする紙が全然足りなかった。算数、国語のノートは周囲どころか、表紙裏、挙げ句は本体部分までの落書きで、その隙間に授業のなにかが見えていた。教科書の行間にも描き、クラスの子のノートにも描き、テスト中にもその用紙の裏に描いた。ときどき母は近所の家から捨てるような紙を貰いに回ってくれた。

だから、何にも描いていない紙を捨てるのは、私には相当の罪悪感がある。「高野聖」の作者、泉鏡花が、文字の書いてあるものを捨てるのは、それがなんであれ嫌がった、というのをどこかで読んだ記憶があり、比較は僭越だが深く共鳴したのを覚えている。

そんなわけで、「何かを描いてから」捨てるつもりで、それらの紙にスケッチ、クロッキーを描き始めた。すると、一本、線を引くたびになにかが目覚めるような気持ちになるのだった。

描けば良いってもんじゃない。が、これはもう一種の病気、中毒あるいはすでに私の持病なのだ、と感じた。描かなければ死んでしまう、描くことだけが効能ある薬、と改めて思う。「毒をくらわば皿まで」。最後まで薬は手放せない。

新しいこと始めよう

「 Apple 2020」  2020 Tempera,Aqyla on canvas

「青いカモメ展」は20日、コロナ下無事(?)終了。私は未完成作品を出品してしまったので、遅ればせながらこの場で完成作を出品します(あまり変わりませんが)。

私的には、「Apple」のシリーズともいえる作品をずっと続けてきました。これが一つの結果と言うほどのものはありませんが、そろそろこれまでの試行錯誤を整理して、総合的な作品を目指していこうと、この作品の前後から考えていました。

今年いっぱいはこのような作品を見る機会が多いと思いますが、すでにいくつかの小品で総合化を試みていますので、それらの試作、失敗作もこれから登場するはずです。期待?してください。

青いカモメ展に戻りますが、「失敗すること」の大切さを今回も感じました。「面白い」と感じられた作品はどれも「失敗と紙一重」か、「失敗の中に面白い試みがある」「失敗とも気づかない」ような作品ばかりでした。多(少)の失敗を認める大らかさと、自分本位の好奇心が「失敗の原因」ですが、そういう意味では、失敗こそ、その人らしさの原点であると私は考えています。

絵画史上のすべての名作は、「それ以前の名作」の前には「大失敗作」ばかりです。絵画史とは「失敗史」そのものなのです。バロックの絵画は、今でこそ絵画の黄金時代と呼ばれていますが、「バロック」という言葉自体、「野蛮な」「奇妙な」という意味を持つ語です。当時は「変な絵だなー」と思われていたのです。

「青いカモメ展」では、もっと変な絵(もちろん自分から変だなどとは思わないでしょうが)をいっぱい描きましょう。新しい絵を描きましょう。でも、「新しい」とは何でしょうか。それは自分にとって「普通で、自然で、面白い」ということです。ただし、「普通」「自然」という意味が、他人の決めた尺度ではなく、あくまで「自分にとって」ということが条件です。ことばは簡単そうですが、これを実現することは、決してたやすくはありません。

ここで「高齢者」という言葉を開き直り的に使いましょう。もう先が長くない。なんだかんだと言いながら、ここまでしぶとく生きてきた。今さら、この先も他人目線の絵を描いていたら、死んでも死に切れないのではありませんか?お孫さんや、ひ孫さんをかわいく描いてあげたって、どうせ義理でしか喜んでくれません。それより、新星爆発じゃないけれど、もう一踏ん張りして、バクハツして死んだ方が楽しくないでしょうか?きっと子どもさんも、お孫さんも「じっちゃん、ばっちゃん、やりたいことやって死んだわ。うらやましー」って、尊敬すると思いますけど。