新しさを楽しめていない

エスキースのようなもの

新しいパソコンが届いたのが7日、組み立てたのが9日。前のパソコンがアップル(今も並行して使用中)で、今度のパソコンが6年ぶりのWindowsなので、ソフトのインストールなど、セットにけっこう手間どった。

使い始めたのは11日から。今日で一週間になる。パソコン音痴の私にとって、正直、Windowsは苦手だ。アップル社のMacのほうがずっとやりやすい。けれど、愛用のMacが壊れ始めた。もう7年目だからそれもやむを得ない。買い替えるにあたって、動画編集ができるような性能をMacで求めると、残念ながら予算が足りない。しかもこれまでのようなノートパソコンにすると、性能と価格との間にさらに大きなジレンマがある。

それでしかたなく、Windows(ウインドウズファンには悪いが)。しかも再びデスクトップ。けれど、いわゆるコスパを考えるとそれなりに納得できる。息子に言わせると、「Macは選択せずに済む」から楽なのだそうだ。確かにそう思う。

「A,B,Cのうち、どれにしますか?」という選択肢を的確に選ぶには、それぞれの機能も、それらの違いも知らなくてはならない。それが苦痛ということは、知識がないということだし、知識がないということは(少なくともパソコンについての)勉強はしていないということになる。Windowsに戻るということは、「7年間で、すこしは勉強したんかい」と問われているようなものでもある。毎日がアチーブメント・テストと、新しい知識のつめこみ。新しいことなのに、子どものように素直には楽しめていないなあ、と感じる日々。

パソコンを作る

組み立てたパソコン内部

パソコンを自作した。といっても私ではなく、ほとんど息子。私は片方を持ち上げたり、ここにこれを差し込んで、とかいう指示に従うだけ。前の時はただ見ているだけだったが、今回は、いくらかは「自作」の気分を味わわせてやろうという「思いやり」。

言うまでもないが、パソコンの重要部品の多くは精密品。CPUだのなんだのまで自作できるはずもない。「自作」の意味は,「自分の使い方に合わせる」ということ。市販品では自分の希望のレベルに少し物足りなかったり、欲しい性能と価格が見合わなかったりする。それで「自作またはオーダー」ということになる。要求する性能と価格を上手に組み合わせれば、それなりの満足感がある。ただ安くしたいだけなら、安い物を買えばいいだけの話。

「自作パソコン」で一番重要なことは、「パソコンで何をやりたいのか」ということだと思う。「パソコンで絵を描きたい」なら、各パーツに要求されるレベル(スペック)があるし、ゲームをしたいなら、やはりそれに見合うスペックがある。水彩画を描きたいなら、油絵具ではなく水彩絵の具を選ぶように。それからあとに製品知識、器用さなどが関わってくる(製品知識などふつうは持ち合わせないから、まめに調べる「検索力」も大きい)。

ひとくちに絵を描きたいといっても、頭に思い描く絵のイメージはひとそれぞれ。パソコンもたぶん似たようなものではないか。パソコンを知らない私などは、「パソコンで何ができるのか」、などと考えたこともなかった。今回、私の希望に合わせて「作ってもらった」『自作パソコン』で、「もっとこんなこともできるんじゃないか」と前向きに思えるように、すこし頑張るつもりでいる。

競争原理

「人形(仮)」(エスキースを試行中)

「世の中は一歩出れば全て競争だ」「だから子どもたちにもできるだけ早くから、それに対応できる力をつけさせなければいけない」、と多くの人たちは考えているようだ。学力しかり、経済観念しかり。そのために学校へ行き、そのために勉強し、そのために良い大学へいき、良い会社に就職する。そこまでの競争を勝ち抜けたことに感謝し、その競争社会のために奉仕する。それが「子供たちの将来あるべき姿」だと、考えているようだ。

新総理大臣の「自助(自分のことは自分でやれ)」「共助(本人ができなければ家族、親類等でカバーしろ)」「公助(あきらめて死ぬ覚悟くらいはさせてやる?)」に、世論調査で70%近い支持を示す国だから、それに疑問を唱えたって、まともに相手にもされないだろう。要するに「競争を勝ち抜けば〇」と言っているわけで、「なんだかんだ言っても、金がなければ何もできない」という「常識」も同じ発想から来る。

TVの中で、ある小学校では「努力して、以前より少しでも順位を上げる、その過程、頑張りを評価するのです」と校長先生が、いかにも順位本位ではないというふうに胸を張る。けれど3位の子が1位になれば、1位の子は下がらなければならない。その子は努力をしなかったという評価になるのだろうか。

「その悔しさをバネにして、次回は頑張れ」というなら、次には今1位の人を引き摺り下ろせという意味であり、これでは単に苦しみを繰り返すばかりの地獄ではないのだろうか。そして、それが本当に「本人のため」なのだろうか。いつもビリになる子に、どんな「肯定的評価」があり得るのだろうか。そしてこれは、別に子どもや特定の分野だけに限ったことではない。要するに「勝ち組」以外をふるい落とすための「国民的制度」に他ならない。

その「常識」は、どうやら世界の隅々まで、というのではないらしい。「競争だけが人生だ」とか、「倍返し」などという言葉とは遠い国々がある。世界で最も「幸福度」の高い国々だ(「世界幸福度報告:国連の持続可能開発ソリューションネットワークが発行はする幸福度調査のレポート。自分の幸福度を10段階で答える世論調査の平均値)。国の経済力の大きさと国民の幸福度とは一致しない。人を引きずりおろしてその地位を奪う。その瞬間だけは幸福度が高いかもしれないが、その逆の場合に、幸福を感じる人はいまい。競争をすべて否定するつもりなどないが、勝ち負けにもっとも高い価値観を置く気持は、私にはない。