周辺知識

「西洋梨」(制作中) 2020/11/28 ペン・水彩

「周辺知識」とは、たとえば「自分も油絵を描けるようになりたい」ということがメインだとすると、「展覧会情報」とか、「画材の知識」「あの人も絵を描いているんだって!」「あそこの画材店が安いよ」などなど、のことです。

「周辺」という語感から、知らなければ知らなくてもいい知識、雑知識の類に思われがちです。けれども、実際上は「周辺知識」の大ピラミッドの上に、ちょこんと「メインの知識」が載っているイメージです。「油絵」なら、展覧会情報など知らなくても、絵を描くことはできます。けれど、パソコンではせっかく高いソフトを買ったのに、「周辺知識」がないと、ほとんど使えないということを毎日のように体験します。

「常識」が違うといえばいいのでしょうか。油絵を描いたことがなくても、水彩画ならやったことがあるとか、身近に油絵を描いている人がいる等々、なんとなく見よう見まねで類推できる、アナログの部分があるのですが、デジタルになるとそれが全然通用しない、という感じなのです。パソコンでも慣れてくると、ここはこういうふうに考える(処理する)という常識ができるようですが、慣れないといつまでもキーボードの前で立ち尽くすことになってしまいます。

どうしたらいいのかと聞けば、なんでも適当にやってみればいい、と返されてしまいますが、何をどうできるのかの見当さえつかない状態だから、「適当に」などできるはずもない。ほかの人はどうやっているのか、わからないことをどうやって調べたらいいか、そこに行きつく前に諦める人もいそうな気がします。でも、とにかく、そうやって周辺知識を少しずつ増やしていくことが、まずはパソコンを知ることになるようです。同類の方々、めげずに一個ずつ、知識を積み重ねていきましょう。

運動のご褒美は「健康という理想」だけ?

公園にて(2020.11.21)

運動不足とストレス食いによるコロナ太りを自覚していたが、10月の集団?検診でやはり引っかかった。「改善する気はある」に☑を入れたため、12年ぶりに保健指導を受け、今後2週間の「改善実行レポート」提出を課されることになった。

毎日適度な運動をすれば身体に良いことくらい、指導されるまでもなく誰でも知っている。けれど、つまらない風景の中を毎日歩く気がしないし、老人が毎日一人でボールを蹴ったりなどしていたら変人扱いされかねない。「健康のためなら死んでもいい」という有名なブラックジョークを思い出すが、変わらない風景の中を毎日せっせと歩くなんて、目的意識は理解できるが、風景に対する感覚が麻痺しているのではないかとさえ思う(だから続けられるのかも)。

とはいえ、歩けなくなるのは困るし、体重増加がどんな結果をもたらすかは日々実感するところだから、積極的にやれるならそれに越したことはない。風景に変化があれば、それだけでも楽しい。運動にも具体的なご褒美は必要だ。というわけで、子どもが小さい頃よく連れて行った公園へ。

斜面を登り、写真を撮り、気が付くと貸与された万歩計が10000を超えている!先月のある日など、スマホのヘルスチェックによると、一日30歩(病気で寝ていたわけでもないから、数字自体が疑問だが)。確かに風景効果はありありだが、そこまで車で片道11分というのは「かなり遠く」、毎日のコースには向かない。それに毎回斜面のぼりなどやってもいられない。運動するには、健康という「理想」以外の具体的な何かが必要だ。

生死を分ける稜線

登山家ウェリ・シュテックが40歳でエベレストで滑落死するまでの半生を、スイスの放送局が編集したものの一部をネット配信で見た。「生死を分ける稜線」はそのタイトル。

「他の人が自分を見たら、あいつは気違いだというだろう」。彼は自分でそう言い、ある山では、落石に頭を直撃されて200mも落下し、二度目は友人を高山病で失う。「この山は自分のものじゃない」と二度も撤退しながら、結局は三度目にチャレンジする。「自分はこれまで挑戦してこなかったんだ。」たくさんの危険な岩壁を超人的なスピードで登る、登頂までの最短記録をつくりながらそう言うとき、彼の「挑戦してこなかった」とはどんな意味だったのだろうか。

一歩誤れば谷底へ真っ逆さまという危険な雪の稜線を、彼は実際に走る。「滑落死が常にとなりにある。」映像はそれが彼にとっては日々の練習でもあることを示す。

生きるということとピッタリ背中合わせの死。そんなぎりぎりの、極限の美学があるんだなあと思う。