坦々と

アジサイ(CGスケッチ)

「坦々としている」ひとはわたしにとっては「カッコいい」。ごくごく小さい頃から、わたしは自分がパニックに弱い人間だと自覚していた。そしてそれは数十年たった今も変わっていない。

人間の世界では、わたしは間違いなく「臆病なひと」。勇気なんて持った記憶はないし、団体で行動するにしても3列目がせいぜいだ。先頭で旗を振る人はもちろん格好いいが、それよりカッコいいと思えるのは旗を持たずに先頭に立つ人であった。

わたしにとってのリーダーシップは、つねに先頭にあり、責任を一身に引き受けてなお「坦々としている」ことだが、それはわたしとは正反対。そんな人にあこがれるのは当然だとしても、あこがれるだけで、けっしてそういう人になりたいと思わないのが「臆病」ということだろう。子どもの頃のわたしを、母は「怖がり」だと笑っていた。恥ずかしかったが事実だからしょうがないと、あえて反論などした記憶もない。

年を取ったせいか、「坦々と」の意味がリーダーシップとは無関係になり、文字通りの「坦々」に変わってきた。「坦々と生きる」ことが実は意外に難しいと感じてきたからだろうか。最近のわたしは以前より少し(事前に)準備するようになった。いや、そうしないと何もできなくなってきたのである。以前はすべてが「行き当たりばったり」。それを若さと間違えてくれた人もあるが、実態は、未来を想像し、それに備え、準備する感覚と能力がなかっただけだった。振り返ってみると、これまで何とか無事に来られたのは単なる幸運ではなかったかとさえ思える。転変の激しい現代では、そんな偶然性だけであらゆることを乗り越えていくのは無理だと、やっと多くの人の通った道をわたしも踏んだからなのかもしれない。

傲慢 — 2

アジサイ(CGスケッチ)

(前回の「傲慢」より続く)
「自分は正直で謙虚だ」と思うことがすでに傲慢だって?じゃあ、自分をことさら卑下しない限り、みんな傲慢だということになっちまうじゃねいか!って、怒りのあまり語尾がもつれちゃったりする気持ちはわかるが、でも、そうなんだと言おう。

自分は傲慢ではないと思うことが、すでに傲慢だ、と言い換えてもおこう。同じように「私は謙虚だ」と思う人は謙虚ではなく、やはり傲慢なのだと言い換えておく。これはただの言葉遊びではなく、むしろ本当の意味で危険な思想だといえるかもしれないから。

どういうことか。—多くの場合、わたしたちは自分のことを「ごく普通の」「常識的で」「特に優れたところもないが(多くのばあい謙遜である)」「特に悪い心を持っているわけでもない」人間だと考えている―だから。だから危険なのである。正直で謙虚で普通で常識的でほとんど何の取り柄もないと公言する善人だからこそ、危険だというのである。それが「普通」である以上、「それ以外」はある種の異質な存在であり、はっきりした輪郭のない「普通」の人が、いつのまにか、ほんの少し自分と違うだけの他人を排除する側に立ってしまっていることに気がつかない。自分自身が「普通の」ど真ん中であり、他が偏っているといつの間にか錯覚してしまう。

「正直で謙虚で・・・善人」なんていないのである。少なくともわたしはそうではないし、たぶんあなたも実はそうではない。時には都合のいい嘘をつく、または都合の悪い事実を隠し、人には嫉妬し、ちょっと得意なところを何となく見せびらかし、取り柄がないと口では言いながら「少なくともお前よりはマシだぞ」と目の前の人を(心の中で)見下し、嫌な奴はみな死んでしまえなどと考えている、それがわたしであり、ひょっとするとあなたも、ではないだろうか。

会食自粛を人には強いておきながら、自分たちは悪びれもせずに会食した政治家たちがいる。「政治家は人に会うのが仕事」とうそぶいたが、こういうのを典型的な傲慢という。けれど、誰が見ても傲慢であるだけに、気分は悪いが実害は少ない。反面教師の好例にもなるし、選挙で落とすこともできる。だが、「普通の人」の「大多数」は誰にも止められない。ひとりひとりが、ある意味では全員少しずつ異質な存在であり、けっして正直や謙虚なだけではない、裏も表もある人間なのだと認識しない限り、誰にも止めることはできない。その怖さをわたしは日々ひしひしと感じる。 

初心に帰り「過ぎ」?

こんなバカバカしい画像でも・・・(CG)

バカバカしいほど単純なこんな画像でも、すったもんだしたあげく、何時間もかかって描いた。illustratorという、名前くらいなら誰でも知っているアプリで。このブログでもすでに何回かillustrator製の画像をアップしているが、今回の画像はその中でもとびぬけて「バカバカしい」。たとえば青いカモメ展のDMデザインも、実は同じillustratorで描いたものだ。

このアプリの公式チュートリアル、入門のステップ1を真似して描いた。illustrator自体はもう20年も前から使っているが、絵を描くときは別のアプリを使い、こいつはもっぱらレイアウト用。一年に数回使うだけだったが、心の奥底では「こいつを使いこなせたら、もっと何か面白いことができるだろうなぁ」と思ってはいた。それがコロナのおかげで?全くの初心者に戻ってみたのだった。

コレには図形ツールというのがあって、このような単純な図形、単純な塗りなどに使われる。熟練の人の絵を見ると、この単純な図形を恐ろしいほど巧緻に使いこなし、逆にこの単純さを武器にしていることがわかる。—わかるが、やる気がしなかった―難しく、面倒で、それを覚えるための時間を考えると、とても無理だと思った。今もまったく考えは変わらないのに、なぜか踏み出してしまったのは、「もしもコイツを使いこなせたら・・・」という心に巣食ってしまった誘惑と、すでにわたしの脳みそがコロナに侵されてしまったせいなのかもしれない。

こんな調子ではいつ挫折してもおかしくない。だって自分がバカになったみたいで、本当につらいんだもの―ぜんぜん面白くないし。でも、勉強ってそんなもんじゃん、ってロバ的な耐久力だけは人並みにあるのよ。数学もぜんぜんできない(今も)が、もしも数学が分かったらきっと世界の見え方が違うよなーという憧れがある。数学はもうチャレンジできないが、コイツはもうちょっとだけ粘ってみようと思ってるんだ。