耳のかたち

「木立ベゴニア」(CG) 絵は本文には「馬耳東風」です

わたしにとっての七不思議のひとつは、ヒトの「耳のかたち」。猫や牛や馬、象の耳だとまったく不思議さは無いのに、なぜかヒトの耳のくるくると丸まったかたち、そのかたちへの成り立ち方(進化の合理性)がどうも想像しにくいのだ。

耳を、音(または空気)の波を感じる器官とすれば、耳は魚にもある。もちろん鳥にもある。爬虫類にも昆虫にもあるどころか、ミミズクにさえ?あるという(植物にもあるという学者もいるが、ここでは深追いしない)。魚の耳は、その頭の中にある内耳というところが、ほぼヒトの耳に近い働きをするらしい。他にも側線という、体の両側、鱗の下を頭から尾まで一本の線のようにつながった感覚器官で微妙な水圧の変化などをキャッチするのだが、ここでも人間の声ぐらいは感知できるらしい。ほかにも浮き袋で外部の音を増幅させて、体内の神経を通じて内耳で聞き取る魚もいるというから、魚は何個も耳を持っているともいえる。

硬骨魚類には頭の中に耳石というのがあって、これで水中での姿勢を保っている。余談だが、化石ハンター、岩石ハンターならぬ、耳石ハンターという趣味をもつ人たちが、魚種ごとにかたちの異なるその耳石を収集、そのかたちの美しさを自慢しあうというマニアックな世界もあるらしい。—ヒトの三半規管にも(ヒトだけでなく、おそらくほとんどの動物に)耳石があり、ほぼおなじ機能を持っている。これが剥がれ落ちたりすると、眩暈(めまい)が起きる。メマイしながら泳ぐような魚では、エサを捕ることなど当然できない。「人間に生まれて良かったあ」と「めまい外来」のあることを神に感謝したくなる。

鳥の耳は目立たない。が、羽毛を搔き分けてみると、ヒトの耳とほぼ同じように頭側にぽっかりと穴が開いている。ミミズクというフクロウの仲間は、鳥の中では例外的に耳が外に突き出している。それがミミズクという名の由来になっているのだが、眼よりも音を頼りに獲物の位置やサイズなどを判断する生活様式から考えると、空気抵抗を割り引いてもそれなりの合理性があるだろう。—いずれにせよ、動物の行動様式や生態を考えれば、それらの耳のかたちの成り立ちが、それなりに納得できるような気がする。

なのに、ヒトの耳はどうしてこのようなかたちなのか。勾玉(まがたま)に6というアラビア数字(我々が日々最もお世話になっている数字)を二重に掘り出したようなかたち(漫画の神様、手塚治虫の登場人物の耳)に、どんな合理性があるのだろうか。人物スケッチをするたびに感じる、長年の「不思議」である。

音楽

Apple-習作(CG)

音楽に関するわたしの話題はとても少ない。正直言って、音楽についてはまったくの門外漢である。かといって、嫌いなわけではなく、むしろ大好きであるし、音楽の力によってどれほど励まされ、慰められてきたか数知れない。「あらゆる芸術は音楽を理想とする」という言葉もあるように、わたしもまたそれをひとつの理想だと感じるひとりである。

ただ、わたしの聴き方は、音楽をこよなく愛する人々から見れば、おそらく最低の聴き方であるに違いない。じっと音楽に聴き入るということはほとんどない。ひたすら制作中のBGMであり、いい曲だなとボリュームを上げることはあっても、曲名をメモしたりすることなど滅多にない。あってもリクエストをしたり、曲を検索したりすることもほぼない。NHK-FMを聴くことも少なくないが、BBCのラジオ2か3をかけっぱなしにすることが一番多い。NHK-FMはわたしにとって一種の教養番組であり、教養は深まるだろうとは思うけれど、制作中では意味の分かる言葉が邪魔で仕方がない。その点、英語の音楽チャンネルなら意味は解らないし、喋りも少なく、大助かりだからである。

どんな音楽が好きかというと、なんでも、というしかない。寛容というより、こだわるほどの情熱も知識もないということ。フォークロアがいいと思えば、ロックも好き、という調子。時間的にはロックが一番多いかな。ロックはわたしの制作のリズムに合うだけでなく、精神的エネルギー補給にも役立っている。同じくらいの時間がクラシック。ポップスもジャズもこだわりなく、流れてくれば聴くが、いわゆる演歌はほとんど聴かない。決して嫌いではないが、意味の分かる言葉が耳に入ると制作の邪魔になるからである。だから、お酒を飲んだり、リラックスしているときは演歌でも浪曲でもぜんぜん構わない。日本の民謡は好きだが、○○よいとこ一度はおいで、的な(近代の)歌詞ばっかりでは面白くない。たまに古い音源を採集したものなどを放送されると聴き入ってしまう。人の声は案外好きで、美しい声だけでなくホーミーとか、チベット仏教の勤行のCDなどもたまに聴く。

リコーダーが自分の中ではやや得意だった。フォーク世代のせいで、わたしも人並みにフォークソングを歌い、フォークギターをかき鳴らした。いまでもコードを見れば弾けそうな気がするが、実際やってみたら無理だろう。ハーモニカを吹ける人が羨ましい。学校でも習う機会がなく、今も遠い存在のまま。優しい音が好きというわけでもなく、エレキギターの、あのギュ~ンという激しさも大好きなのだから、はっきり言ってシッチャカメッチャカだ。パーカッションが意外に好きで、昔はパーカッションだけのコンサートに何度か出かけたりしたこともある。弦楽器はどれも好きだが、チェロの渋い音には心が共鳴してしまう。

整理整頓

Appleー背景の練習(CG)

「整理整頓」・・・ガキの頃から苦手だね。つーか、実は意味もよくわかんねえんだよね。整「理」はともかく、整頓の「頓」ってなんだよ?おめーら、知ってる?—あ、そう。あなたたち(意外に)インテリなんだね。—ふっと出た「インテリ」って、少なくとも60歳以上の人しか使わない語感―万年ガキだと言われたオラも、現実には歳をとったんだね。

オラたちが小学生の頃は「児童会」ってのがあってよ。6年生の時、なぜだかオラが会長にされちまっただよ。ヤンだぁ、どうスッペ・・・と思う間もなく、オラの本心ではぜんぜん興味のねえことをどんどんやることになって、会長っつーことでオラが先頭に立たされちゃうんだよね。嫌だったな—「保健委員会」とか女子の多い委員会があって、「ハンカチをちゃんと持ち歩きましょう」なんて、今でいうキャンペーンっつーのなんかやった。手も洗わねえでおにぎりなんか食ってるオラがハンカチなんて—なんだか急に女の子になったような、妙な恥ずかしさがあって、ずーっと気持ち悪かったのを覚えている。他にもいろいろな委員会があって、薄暗くなるまで意味のないことをしゃべくったあげく、「ケツを取ってください」とか言われ、「ケツってお尻のことかな」と思ってるうちにケツを取られ、会長なのに多くの場合少数派という変なオラだった。

オラはさかな(魚)と動物と絵以外のほとんどに興味のない子どもだった。ウサギや狸をわなで獲れば母方のジジのところへ持っていく。ジジの傍でその解体を見ているのはとても楽しい時間だった。魚を釣れば自分で捌いて家族のおかずにしたり、母の好物の蟹を獲りに早起きして磯に出かけたり、蟹釣りに夢中になったり、賢い狐と3年間ずっと知恵比べをしたり、今から考えると、童話の世界を実体験したようなものだった。いつも一人でそんなことしていたから、なんでも多数決というやり方には今もしっくりなじまない。マタギの家に行き、熊追いの猟犬や鉄砲を見せてもらった記憶も—大脱線。整理整頓の話だった。

魚も猟の獲物も、絵も?—だいたい手元には無くなってしまうものばかりだから、そもそも整理整頓の必要がなかった。せいぜいスパッツをかける釘、ワナ用の針金や竿・針・仕掛けなどを置く場所、スキーや橇を直ぐに出せる場所に置く、だけ。それ以外の整理整頓の習慣が無かったのが、わたしの整理整頓下手の原因ではないか(今回言いたかったことはココだけ)ということ(余談だが、こう書いてみると、学校以外で、つまり家では全く勉強しなかった(宿題も)んだなあと思う—不思議なことにわたしの弟は実に「整理整頓家」(であった)。それは性格による?―と長い間思っていた。父(すでに故人)の病気以来、なるべく毎年実家を訪ねているが、だんだんに弟の整理整頓の「いい加減さ」が見えてきた。やはりね―なぜかちょっと嬉しい。ついでにいうと、わたしの息子もあまり整理整頓が得意ではなさそうだ。妻は整頓はするが「整理」のまったくできない人。これは問題がある―わたしは「整理」も「整頓」もできない人だから問題はない。