ある日のCG日記から思うこと

2005年12月31日の日記

 20年ほど前はこんなふうなCG絵日記だった(データからコピー。その前の絵日記はスケッチブックに描いていた)。それまで日記というものには文字どおりの三日坊主だった筆不精のわたしだが、息子が自分で日記を書けるようになるまでは、親のわたしが書いといてやろうと始めた絵日記だった。
 まだ文字の読めない本人に毎朝見せるためには絵を描くのが手っ取り早かったからだが、やってみると自分のことを書かない絵「日記」は私自身にとっても余分なプレッシャーがなく、彼を主人公にしたホームページ兼絵日記は、彼が幼稚園に入る直前から中学を卒業するまでのあいだ、予想外に面白く続けることができた。
 友人の美術家が、自分の息子の幼稚園への事務的な連絡帳を、世界にたった一冊の、楽しく、面白く、貴重な成長の記録として劇的に再創造してしまっているのを見せられ、大きな刺激を受けたのがきっかけだった。

 息子はパソコンが「生まれつき?」得意で、彼が幼稚園の年長さんの頃には、すでに彼はわたしの「パソコンの先生」であった―というのは事実である。ローマ字入力の必要上、「あいうえお」とアルファベットを彼に教えたのはわたしだが、そこから彼は自力でインターネット上を検索し、必要な知識をどんどん吸い込んでいった。

“Press any key” という字がパソコンの画面上に現れた時、幼稚園児だった彼は「これはどこかのキーを押せって意味だよ」と即座に言ったのをわたしは聞き直した。当時のパソコンはwindows 3.0 か 3.1 だったはず。爆発的に広がった windows 95 の3年か4年前である。英単語などまだひとつも知らないくせに、感覚だけですでに多くの英文の意味を理解し、使っていたのは、今考えてもすごいと思う。
 でも、じつはそんなふうな体験をする親はたくさんいるのではないか。いや、むしろほとんどの親がそうなのではないか、と思う。子どもの能力は桁外れである。まるで人間サイズのIPS細胞だ。何にだってなれる、けっしてオーバーでなく。わたしたち親の側だって、子どものときはきっとそうだったのだ。
 ―でも、なぜその能力を伸ばすことが出来なかったのか―ひとつは親の責任である。もう一つは社会の責任だが、このふたつを切り離して考えることは無意味だ。そのことを言い換えれば、こどもの能力を奪うのは親を含む社会環境だということになる。
 ただし、それは現在の環境という目先だけのものではなく、歴史、民俗などの時間軸を含むものから、思想・教育などの人文的な環境軸、生まれ育った自然環境などの空間軸などの一切を含む巨大、強大なものだ。「親の責任」と書いたが、そういう巨大なものの中でもがきながらほんの少し環境を変えるのだって、親個人にとっては重すぎるほどに大変なことなのだ。

だからといって、「仕方ない」では済まされない。すでに高齢である自分たちを含め、すべての人々の「何にでもなれる」未来がそこにかかっている以上、少しずつでも変えていく以外に途はないのも事実である。
 無力に近いがゼロではないことを信じつつ、無限大とも思われる遠くへ蟻の一歩を進む。
 宇宙探査機「はやぶさ」が6年以上かけて1億5千万㎞の彼方にある小惑星「りゅうぐう」を往復してきたことは多くの人々に感動を与えた。その「はやぶさ」はすでに次の10年を新たな小惑星に向かって進んでいる。うっかりすると、はやぶさが再び地球に変える前にわたしたちはもうこの世にいないかもしれないが、そうやって人が少しずつ何かを変えていることもまた事実。ローマへの道も一歩から。ローマは「りゅうぐう」より近い。

スケッチ会

椰子の実、オウムガイ、水差しなど  (2010頃のスケッチ/ 鉛筆、水彩)

一昨日(6/15)、久しぶりにスケッチに出かけた。最近はタブレットを使って描いてばかりだから、手が動かないかと心配したが杞憂だった。風景スケッチは楽しい。見て歩くだけでも楽しいのに、描いたスケッチが手元に残るというお土産もある。仲間がいるのもいい。

以前は多人数でスケッチに行くのは億劫だった。一度スケッチに出たら最低でもスケッチブック一冊(今は17ページくらいのものが多い)を描かなくては気が済まなかった。スケッチは続けて描くうちにリズムが掴めてきて、ぐんぐんスピードがあがり、シャープになり、視点も研ぎ澄まされてくるものだ。だから、だらだら描いていてはいけない。描いたらすぐ移動することを繰り返すのが、上達のコツだと思っている。多人数ではそんなマイペースが守れない。

けれど、最近は気心の知れた仲間たちとスケッチに行くのも悪くない、と思うようになった。教室の人たちのレベルが上がり、何とかペース合わせられる程度になってきたせいもある(わたしも随分我慢強くなったし)が、スケッチとそれを描く人とのあいだに興味が移ってきたことが大きいような気がする。

「スケッチと、それを描く人のあいだ」。「人間性」といえば少し大げさな気がするが、まあ「人となり」というのがそれに近いだろうか。おっとりした人がゆったりした絵をかくとは限らない。おしゃべりな人が饒舌なスケッチを描くとは限らないのだ。下手な絵にも存外深い意味はあり、遠近法の狂った絵にもその人となりが鮮やかに輝くこともあるだろう。世間話をしながらその人の描きぶりを見、スケッチを見る。そうやって、いわば人間のスケッチもする。それも、というよりもしかしたら、そちらの方が面白いと感じるようになってきたのかもしれない。

旧岩槻市内スケッチ

岩槻:鈴木酒造(銘柄:万両)
寿司デリバリーのある路地

今日は「青いカモメ絵画教室」で、久々のスケッチ会に20人ほどが参加した。現在はさいたま市になってしまった旧岩槻市内で。曇りまたは雨天の予想に反し、日傘をさして描くことになった。午前10時、岩槻人形博物館前での集合から午後3時(結局 5時までになってしまったが)の間、自由制作、自由解散。午後2時~3時の間だけ、集合場所でわたしが希望者に講評するという手はず。

パンフレットによると、岩槻は戦国時代の築城から明治の廃城まで、江戸時代には宿場町でもあった古くからの城下町。いわゆる天守閣のあるような城ではなく館(やかた)タイプだったようだ。近くを流れる元荒川(当時は荒川本流)から水を引き込み広大なお堀を巡らしていた(現在の城址公園)。武士だけでなく、武具や家具等の職人たちも周辺に多く住み、それが現在の「人形の町」として全国に知られる岩槻の土台になっているらしい。

スケッチブックを手に歩いてみると、ところどころに風情のある区画を見るが、城下町といった風情はほとんど感じない。それだけ発展したともとれるが、町の性格が質的に変化したのだろうとわたしには思える。特に古いものを描きたくて探すわけではないが、他所とは違うものを見つけようとすると、歴史的なものが対象になりやすいのはやむを得ない。明治4年創業という鈴木酒造を描いたスケッチは、そうした歴史ものの1枚。寿司デリバリーのバイクが並んだ1枚は、少し古びた町と、コロナ禍下の今とがドッキングしたスケッチになった(はじめにそういうことを狙ったわけではない。ふっと絵になる路地かなと感じたところにたまたま店舗があった)。

とても暑かったので、昼は博物館前のカフェで、冷えたタピオカミルクティーを飲みながら持参のおにぎりを食べた。午後のスケッチのあとのジェラートはブルーベリー。あとで聞いたら、鈴木酒造提供の「酒粕ジェラート」があったらしい。これは近日中に試食、報告せねばなるまい。