宴(うたげ)のあと

「木立ベゴニア(部分)」 2021 F60

コロナ禍。東京都が3日連続で新たな感染者5000人以上(全国では25000人以上。症状があるなど自ら申し出た人だけで)、東京都だけで累積30万人を越えたという。一都三県だけでなく、大阪をはじめ、全国でも軒並み感染者数最高を更新し続けている。神奈川県知事などは直接その言葉こそ出さないが、事実上のロックダウンを政府に求めている。統計医療が示した想定のうち、「最悪のケース」が現在進行中である。

感染者数増加で、「すでに医療崩壊状態だ」とかなりの数の医療関係者が、警鐘どころか非常ベルを推しているなか、当の東京都知事はすましたものだ。柔らかい口調で「災害級の感染増」「帰省は諦めて」「買い物に出ることも控えて」「他人事でなく自分事と考えて」。「感染したら死ぬかもよ」とばかり、言葉はお願いのようでいて、中身は脅しのような言い方だ。

そのくせパラリンピックはやるという。オリンピックをやるべきではないと提言したコロナ対策の分科会会長を暗に皮肉りながら、「安心安全なオリンピックを開催できたという経験を生かして」「児童、生徒には(中略)貴重な機会だから、ぜひ(会場で直接)観戦させたい」。ならば一般市民も「(安心安全だった)オリンピック期間中と同様」気を付けながら外出すればいいのではないか。IOCのバッハ会長が銀座へお買い物に出た時も「不要不急の判断は個人がすること」と五輪担当相は言った。ならば「帰省」も「他人事と考えず」などと言われる筋合いなどない。自分で判断すればいいと大臣も知事も言うのだから、「不要不急」云々など余計なお世話である。第一、都内への通勤は全く問題にしないが、近場のショッピングに出かける事さえ控えて、という論理は矛盾している。人命より経済優先、自分都合のパフォーマンス優先と言われるのも当然だろう。

何を訊かれても、「ワクチン接種が進めば」と馬鹿の一つ覚えだったどこかの首相も、緊急事態宣言の拡大地域名を並べただけで、あとは雲隠れ状態。大見得を切った、頼みの綱のワクチンそのものが不足する事態を招くなど、危機管理能力ゼロだと思ったが、そもそも危機感自体が無いのだろう。ずっと頭にあるのは、目前に迫った自民党総裁選と衆議院選挙のことだけか。首相の頭にはパラリンピックなど、もうどうでもいい事柄に違いない。選手には気の毒というしかないが、どう考えても、この状況下であえて開催する意義は見いだせない。国民も、賛成も反対もなく、「何を言ったって、どうせやるんだろ」と、ほぼ無関心という心の隙間を小池氏に突かれてしまっている。そのあたり、政治家としては首相より数段うわてなようだ。

ストレス?

木立ベゴニア (制作中)19 Aug 2021

ここ数日とても疲れる。体の調子はいたってよく、食欲も旺盛(量は加減しなくては!)で、睡眠も十分摂れている。なのに夜10時過ぎには何となく疲れてきて、今日中にやる予定を明日にしてしまう。そして予定遅れが溜まってくるとそれがストレスになってくる。

夏の暑さ疲れが溜まってきた?コロナのニュースを聞くたびに感じる、政府の後手後手な対策へのイライラ疲れ?それとも単に怠け病?

世界は一瞬の休みもなく動いている。目下はBBCを中心にアフガンのニュースに耳を立てているが、もちろん日本でも時計は止まらない。大雨の被害を聞くたびに気持ちは塞ぐし、パラリンピック開催への疑問と選手自体への同情で気持ちは落ち着かないし、国会の答弁を聞けば腹が立つし、コロナのニュースは上の通りと、世界も日本も動いている。動かないのは自分だけのような錯覚に陥りそうな気がする。

こんなときは以前ならお酒で一瞬忘れればよかった。忘れればしばらくは思い出さなかった。再び思い出すまではとりあえず前進する、そんな感じだった。最近は時にはお酒自体がストレスにさえなる。なにか、すべてが八方塞がりのような感じで重たい。これをぶっ飛ばす何かないかな。

アフガン情勢から

木立ベゴニア

トランプ前アメリカ大統領が退任する前に、タリバーンとの間で撤退について合意していた。彼のあとを継いだバイデン現大統領が完全撤退を2021年9月11日までに完了すると発表してから、あっという間にタリバーンの大攻勢が始まり、ついに昨日15日、アフガンの大統領ガニ氏が国外に逃亡した。とうとうアフガンは再びタリバーンの元に戻り、2001年9月11日のアメリカ・同時多発テロをきっかけにアフガニスタンに戦争を仕掛けたアメリカの目論見は無になった、と報道されている。

わたしたちからはアフガニスタンは遠い。話題と言えば、故中村哲医師がアフガンの人々のために医療を提供するだけでなく、彼らの日々の暮らしのために灌漑用水路を作ることに身を捧げていたのに、2019年に反政府ゲリラによって射殺されたことくらいではなかっただろうか。けれど、世界があらゆる意味でつながっている以上、アフガンの情勢もわたしたちの生活と無縁であるはずはない。

アメリカが「悪の枢軸」と呼んでイラクを攻撃したのが2003年。フセイン政権を倒して(口実であった「大量破壊兵器」は発見されないまま)、そのあとをいわば「ほったらかしたまま」撤退したあとにIS(イスラミックステート)が、荒れ地の雑草のようにはびこり、人々を恐怖に追い込んだ(まだ終わってはいない)ことはまだ記憶に生々しい。2010から始まった、いわゆる「中東の春」以後も含め大量の難民が発生し、中東からヨーロッパにかけ、今もきわめて大きな問題になっている。難民の数で言えば第二次世界大戦より多いという。この時も「遠いところの悲惨な出来事」であり、わたしたちの生活には直接影響を受けないように見えた。

わたしにはこの鈍感さが一番の脅威だと思える。北朝鮮と韓国、中国と台湾。仮にここで難民が発生する事態になればわたしたちはどうするのか、考えておくべきことがそこにあるのではないだろうか。その時絵など描いている余裕があるとはとても思えない。コロナ対策一つとっても、政府を「後手後手だ」と非難するのはたやすい。けれど、そういう政府を作り上げてきたのは結局わたしたちである。わたしたちが考えないことを政府が考えてくれると思うのは間違いだと、この夏の「敗戦記念日」について、改めて考えた。