ブラックペパー江戸弁―大脱線

ブラックペパー(油彩)

「2022の新しい旅」といいつつ、やっていることはとりあえず 2021年の後始末。こんなものを仕上げたからってどうということはないのに、片づけないと昨日の靴下を今日も穿く感じでなんとなく気持ち悪いのだ。そのうえそれを見せるなんて、靴下どころか洗濯前のパンツを見せるようでもっとおぞましいのだが、今日の制作はそれしかなかったという自分への「戒め」だったりする(オレはもしかするとマゾヒストだったのか?)。

“マゾヒスト”ついでに言うと、それに近い感覚はすでにほとんどの日本人に体質化しているのではないか?と常々思っている。考えてごらんよ、たとえば「忖度(そんたく)」。だいぶ前に話題になったルース・ベネディクトの「菊と刀」、数年前に流行語になった「空気を読む」なんて考えてみると、江戸時代どころか飛鳥時代頃まで遡れる、同じ精神構造なんじゃない?いわば日本人のDNA。これは簡単には変わらないぜ。

脱線し過ぎだ。  ―要するにCGでやったことを油彩でもやってみたってえだけのことじゃねえか。でもよう、油絵具という「実材」を使うと、たとえば関節の病気があればそれがはっきりと絵に現れっちまう。CGにだってそれはあるはずだが、それを見抜くようなCG眼を望むってのはけっこう難しいんじゃねえかな。―要するに、コンピューターで描くのと、油絵具で描くのは同じじゃねえかもって言いてえだけなんだが。

「そんなこと当然だろ?」―ほんとに「当然」って解る?今のコンピューターを馬鹿にしてはいけないよ―また、脱線だ。えーーっと、「本線」ってどこだっけ?

明けましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

今年は何から始めましたか?2022年ももう3日目。光陰矢の如し、です。昔の人は偉いですね、時間の速さを矢に喩えるなんてすごい想像力だと今も感動します。わたしはとりあえず元日には恒例の「描き初め」をして、「光陰」に「○○印」の傷をつけておきました。

アインシュタインの相対性理論によれば、時間を遡る、つまり「過去に帰る」ことは理論的には可能ですが、タイムマシンが現実に可能かどうかには彼自身は言及していません。

タイムマシンが製造不能なことは明らかになっていますが、その響きは今も心のどこかを打ちます。過去を振り返りがちな年齢になってしまいましたが、タイムマシンなら未来にも行けるはずです。今年は心の中のタイムマシンに乗って10年後まで行ってみたいと思っています。

「モーラステープ」

モーラステープを描く(水彩)

鎮痛消炎剤の「モーラステープ」を貼りながら、現代人の癒しの最前線はこういうものかも、と考えていた。そしてこれこそ「最も現代絵画にふさわしいモチーフ」のひとつかも知れない、とも。切り取り、取り出しやすく、保存もしやすい。内容物・外装ともシンプルで、軽量かつかさばらず、機能的で無駄がない。まさに「『現代』のモノの象徴」だ。

何を描くか(対象物)、それが何を「主張」しているのか、は絵画にとっての背骨である、らしい。けれどそれはあくまで「現代では」のことで、絵画の歴史を眺める限り、(対象物を)「どう描くか」という技術的レベルのことに圧倒的な比重があったように見える。「主張」などどうでもよかった、というよりそれは自らを危険に晒すものでさえあった。

少なくとも近代までは、巧みな描写力こそ画家の力量そのものであり、そこにどんな主張を盛り込もうと大衆はそんなことに興味など持たなかった(たぶんおおかたは今でも)。さすがに現代では「描写力=写真的な写実力」という、古く、単純な公式だけで済ますことはできなくなった。カメラとコンピューターが一つになったことで、「写真」の定義そのものが揺らぎ始めてきたからである。

すでにわたしたちの脳裏には「カメラを持ったサル」としての「映像的世界観」が染みついている。行ったことのない場所のことをそこに住んでいる人より雄弁に語り、すでに亡くなった人について家族より詳しく「見て」知っている。それどころか100年後の自分の子孫の顔まで見ることもできる。そんな世界で「絵画」に何が出来るのか。たとえば「描写力」ということにどんな意味を持たせることができるのか。「現代絵画」にそんな力があるのだろうか。そもそも「現代」「絵画」とはいったい何なのだ。

絵画はもう終わっている、とすでに書いた覚えがある。けれど、きっと絵を描く人はいなくならないし、逆に、いつの日か子どものように無心に誰もが絵を描くときが来ないとも限らない。たまたま「わたし」の目の前にある「モーラステープ」は、「わたし」に結び付く地球の歴史すべての中の最終的な一つであり、とりあえずは「映像的世界観」の中でなく、いま「わたし」の生命感覚と最も近く結びついているあらゆるモノの中のひとつだ(いずれそれもバーチャル(仮想)のひとつと見做されるかも知れないが)。それはまるで偶然のようだが、それがモノの真っただ中に生きている「世界の中のわたし」の現実であるような気がする。それを「写真に撮る」「写真的に描写する」だけでは、「バーチャル世界観」そのものの中に自ら埋没しようとする自殺行為になりはしないか。だから、ひたすら「自分にとっての」描写の「意味」にこだわりたい。―そこにかつての美術史にはあった輝かしい意義はもう見いだせないけれど、それでも「わたし」なりの意義を求める。それがモーラステープ「であることを見せる」ためではなく、わたしがこれを描こうと「選んだ理由」を示すために。でも、それが「絵を描く」ってことなんだろうか。(この項未完)