幸福な時間を過ごしましょうよ

「クロワッサン」を教室で制作中(水彩:なぜか食べ物を描くのは精神的にもいい感じ)

さまざまな事情で絵から離れた人から時々ハガキなどを頂く。それらのなかには「あの時間は最も幸せな時間でした」と書いてあることが少なくない。多少の美辞麗句はあるとしても、正直な心情も込められていると感じる。

一枚の絵を描くのには大小さまざまな山や川を越えなくてはならない。それらの幾多のハードルの中でいちばん大きな山が「時間」だろう。「お金」という人もいるだろうが、それはたぶんお金を稼ぐために絵を描いている時間がない、ということだと解釈している。コストという意味では、絵は最もお金のかからない精神的な遊びのひとつだ。実際に、鉛筆一本で自分の世界観を表現することは誰にでも可能だから。原始時代の洞窟壁画には鉛筆すらなかった。

家族の成長とか老化など、いろんな条件を勘案して、「自由に伸びのび(気楽に)」絵が描ける(絵に限らないが)時間を試算してみたことがある。同じことを考える人は少なくないらしく、それらの意見を総合するとだいたい3~10年くらいになりそうだ。日本人の平均寿命が男女とも80歳を超えて久しいのに、この短さは何を表しているのだろうか。―わたしの周囲の人々の多くは皆さん軽く10年以上描き続けている。ということは、単に“ラッキーな人生”ということではなく、むしろ相当な犠牲を払ってでもそれを続けているということになるのだろうか。

ある女性美術家がわたしに言った。「絵を描いている人はみんな愛しく思える、可愛いと感じる。」自分が愛する「絵」を、ずっと愛し続けている人はみなかけがえのない仲間だ、そんな気持ちの表現だろうと思う。彼女ほどの心境にはわたしまだ達していないが、犠牲を払うほど絵は純化していくような気がする。シーンと集中して筆を動かしている人を見ていると、幸福というのは外から見えるようなものではなく、そういう一瞬一瞬にあるものかな、などとも思う。

始動―2022

1月8日土曜日。世間はとっくにもう走り出している。コロナ・オミクロン株の感染の広がりにもそれは表れている。今ごろ始動なんて、冬眠中の寝ぼけカエルじゃあるまいし、ケッ。

自動車のエンジンを始動しようとしたら全然手応えがない。ウンもスンもない。バッテリー上がりだ。元旦から今日まで一度も車を動かさなかったし、どうやらドアが半ドアだった可能性もある。室内ランプも不調で点いたり消えたりだったから、それらが鏡餅のように重なってしまったのか。それはそれで正月らしいのかも知らんけど。

とりあえずJAFに来てもらい、充電。そのあと、カー用品店へ行き、バッテリーを交換。5日は心臓?がバクバクして夜間診療を受けちゃったりして、今年は何だか個人的には動きの大きい年になりそうな気がしてきた。

暮れから昨日までの2週間で体重 2kg 増(すべて脂肪のハズ)。お酒は飲みすぎたし、夜は仕事もせずにネット映画三昧だから当然。いい方に取れば健康だってこと。2年越しのダイエットは計画通り目標に達したので、これからはキープすることが大事―その人体実験も今日から始動だ。

カラカラだった東京、関東に久しぶりの「雪」。ちょっと風邪気味のうえ、昨夜はちょっと胸苦しくなって夜間診療を受けたので、今日はウオーキングも控えようと思っていたのに、雪の風景が見たくなってつい出かけてしまった。ただし、自転車で。

雪の風景は大好きだ。なぜか心が躍る。気温がもっと下がって、雪質がサラサラしてくるともっと嬉しくなる。やっぱり北国育ち、だからかな?

わたしは色が大好きだが、正直言ってカラーセンスにはあまり自信がない。たぶん色に溺れてしまうのだろう。色数が少なくなると反比例的に自信が湧いてくる。そういうわたしには、雪の風景はぴったり、しっくりくる。本当に美しいと思う。けれどそれを絵に描くことは滅多にない。自分でも不思議。雪の中にいることだけで満足してしまうからだろうか。

父の葬儀の日は大雪だった。たくさんの人が頭にも肩にも雪を載せて父を見送ってくれた。火葬場への往復も林の中を通る絵のような道だったが、描こうという気にさえならなかった。なぜなんだろうか。