やっぱり笑顔はいいかも

黄色のワイン瓶のある静物(水彩)

今日(2022.6.25)は(関東は)とても暑い日だった。気象庁発表では群馬県伊勢崎市で40.1度を記録。6月中の40度越えは日本の観測史上初めてだそうだ。東京都でも都心で35度を超えたという。こちらは確か、観測地点を代々木公園かどこか、涼しいところに替えたばかりのはずだから、もとの観測地点だったらもっと高かったのは確実。こちらも明治5年(1872年)の気象観測開始以来、最も早く35度を超えた記録になったらしい(これまでの記録を1日更新)。

直近のハードな用事をとりあえずひとつ終えた帰り、「(この暑さにかこつけ?)久しぶりにビールでも飲もうかな」。近所のスーパー方向にハンドルを向ける。

道中での信号待ち。ニッコニコしながら停車中の脇を通り過ぎる女性(38歳と95日くらい?当てずっぽう)。手にはふわふわモフモフと軽そうな何か(よく分からなかった)を、10個くらい詰め込んだような袋を持っている。それが(たぶん)彼女を「ニッコニコ」にさせている理由なはずだが、信号待ちはすぐ解除されたので、それが何なのかじっくり確かめている時間がなかった。けれど、ややふくよかな彼女の満面の笑顔と、心なしか弾むような歩きぶりに、わたしの口角はすでにすこし上にあがっていた。

「やっぱり(オレも)笑顔が好きなんかも」。日ごろ「笑顔の社会的強制?」には抵抗感あるわたしなのに、何となくココロが弾んでしまった。―今日のこのクソ暑さ、笑顔などしたくても出そうもないなか、心の中から湧きあがるようなニッコニコなんて、なんてハッピーなんだろう‼彼女自身の嬉しい気分が、ストレートにわたしにも伝わってきた。そんな人が身近にいればきっと「We all be Happy!」。今日は、名も知らぬ彼女に「乾杯(完敗)!」。

澄んでいること

ビー玉とりんご

透明なものに、なぜか人は心を惹かれるようだ。「宝石」はまあ特別としても、ガラスが玻璃と呼ばれ、宝石以上に珍重されたらしいことは、奈良正倉院のペルシャガラスが今に伝わっていることからもわかる。古代インドあたりに栄えたムガール帝国のムガールグラスにも、決して現代のガラスのように透明ではないが、やや乳白色がかったぼんやりした反透明感にも、えもいわれぬ魅力を感じたことを思い出した。

「透明」と「澄んでいること」は同じではないが、共通したイメージはある。さらに想像をつないでいくと「澄んでいる」と「濾過された」も意味が近づいてくる。濾過された水は美しく、透明であるが危険でもある。栄養分すら取り除かれてしまい、「水清ければ魚棲まず」となることもあり、透明に近い血は死の危険性が香る。

完全に透明なものは目に見えないはずだから、そこに光が反射したり、屈折があったり、ほんのすこしの淡い色があったりすることで「透明」と意識される。それは澄んでいることにつながり、長い時間をかけて「濾過」された水のイメージにもつながってくる。川底の石が見える清流に心を癒されるのは、そういう時間を経た安心感にも依っているに違いない。

澄んでいるものはどれも儚(はかな)い。簡単に汚されてしまう、貴重なもの。なるほど、わたしたちの心の鏡のようなものなんだ。それは純粋でありたいと願う精神とも深くつながっているだろう。大事なものを見るには澄んだ目が必要だ。そうだ、そのことをもっと大切にしよう。

「親ガチャ」って嫌な言葉

「ガチャポン」とか「ガチャガチャ」とかいう商品がある。たくさんある中のどれかが買えるが、買う側は「これ」と選ぶことが出来ず、そのうえ出てきた商品の中に何がはいっているのかも、開けてみるまでは分からない。これをもじって、子どもが親を選べないことに引っ掛けた語が、「親ガチャ」らしい。

確かに子どもは親を選べない。「金持ちの子に生まれたかった」「頭のいい両親のもとに生まれたかった」「美男美女の両親だったらよかったのに」という意味で使われるようだが、「こんな親で申し訳ない」と親である自分を卑下した言い方の方が多いらしい。いずれにせよ、きわめて不愉快な語というか、おぞましく、その語を発する本人だけでなく他人をも深く傷つける語である。

ここには明らかに人間の上下、差別意識が染みついてしまっている。髪の色、肌の色だって選べないし、先天的な病気や、それらに罹りやすいかどうかの体質だって選べない。生まれる国だって、生まれる時代だって選べない。なのになぜ「親」なのか。親ですべてが決まるほどダメな社会の方こそ問題にすべきではないか。金持ちでなければ幸福に暮らすことはできないのか。いくら以上お金があれば幸せになれ、いくら以下なら不幸なのか。「こんな親で・・・」という前に、自分を生み育てたその親はどうなのだ。そのまた親はどうなのだ。

こんな、ただひたら人間そのものを侮辱する語は滅多にない。殺人犯にだって、それなりの事情はあるかもしれない、くらいのことは、普通の人間ならたとえ一瞬でも心に浮かぶだろう。なのに、この語には一切そういうものがない。一見コミカルな語にみえて、実は笑いなどどこにもなく、ただただ侮蔑的で、しかもそれが自分自身に向けられているのだから救いようがない。あゝ嫌だ。