お金が貯まってしょうがない

毎日使っている自動車だって、描けと言われると案外難しいよ

今日のタイトル凄いでしょう。大金持ち以外の誰もが一度は言ってみたいセリフではなかろうか。

実際、溜まってしょうがないのである、1円玉が(1円玉だって「お金」だぜい)―何度か買い物をすると、財布がお餅か不満顔のお嬢様の頬っぺたのようにプーンと膨らんでしまう。これは時代に乗り遅れていることの、DNA鑑定より確かな証拠なんですよ、キミ。「今は電子マネーという(不都合な)のがあってネ、お釣りで云々(うんぬん。誰か偉い人がこれをデンデンと言って世間の度肝を抜いたことがありましたなあ)と口にするだけで「旧人類」と言われる」なんて、○○デジタル大臣も言っておりました(オイオイ!そんなこと言ってる場合じゃないでしょうに)。

実は、わたしだって○○pay を2つスマホに入れているんですよ。もちろんそれで買い物もしています。乗り遅れてなんかいないですもの。でも、すでに溜まった1円玉を消費するには現金払いで小銭を消費するしかないじゃあーりませんか!って、そこでオクターブあげなくてもいいんですが。ところが、「1円玉をチャリチャリ「小銭投入口」なんかに入れてると、並んでいるお客の冷たい視線を背中にびっしり感じちゃうんですよねえ。ええ、ええホントよ。

ンで、6円を1円玉で6個出すつもりだったのに、視線のストレスで仕方なく10円玉1個を入れてしまうとか。すると(あったり前田が)1円玉が4個増えてくるじゃない!?これってもしかしてBa-baba—–kaじゃない? フン、1円を粗末にする人はいつか(別の宇宙で)1円に泣くわ。フフッフ。

「無意味」をジャンプする

スケッチブック

人生の残り少なくなった時間で、なるべく「無意味」なことはしたくない=意味あることをしたい、と考えていた。その一方で、生きるということにもともと意味なんかないという考えも、高校生の頃からわたしのなかに常に一定のスペースを持っている。

そして、都合よくどちらかをオン、オフにしてその場その場で自分を納得させてきた。それは2つの考え方が互いに矛盾すると思っていたからだが、実は、それは同じものなのだと年を取るごとに思えてきた。どちらもオンにすることが可能であるというのではなく、むしろどちらもオンでなければ、一方だけでは成り立たないことが解ってきたからだ。

まず、無意味=意味のないこと、ではなく、それははるかに「積極的な」空白(空間)だということ。絵を描くためには白いキャンバスが必要だ、と考えてもらえば解りやすい。もう一つは「誰かにとっての無意味」は「他の誰かにとっての有意味」でもあるということ。「誰にとっても意味あること」、そんなものはあり得ない。迷信か、あるいはある種の洗脳の結果(たとえば「教育」という名の)に違いない(この意味では、教育の功罪はもっと深く冷静に(国家単位などという小さなものではなく)常に吟味され続けるべきだと考えているが、ここはそれ以上を述べるのにふさわしい場ではない)。

創作の場では、「意味」は常に否定されるところから出発する。ひとつひとつの意味はすべて一度否定される。ヘーゲルではないが、名作は名作ではない。美しいものは美しくない。そこからしか創作は船出することができないのだ。「そんなこたあ、言われなくたって知ってらあ」と、巻き舌の江戸弁で軽く返されそうだが、確かにその程度のことなのに違いない。でも、もっと大事なのはその先で、さらに積極的に「無意味」をどんどん創り出すことだ。そのことによって生きること。誰かに意味づけられた人生をジャンプするには、それしかない。

午前0時、ビデオ編集中

ビデオ撮影中

11月29日中にこのブログをアップロードしたかったが、疲れて沈没してしまった。ポインセチアの制作ビデオを編集している途中だった。わたしは(撮影にももたもたするが)ビデオ編集にすごい時間がかかる。凝っているのでも、慎重なのでもなく、単純に「知識不足」のせいで。

「青いカモメの絵画教室」チャンネルには38本もの動画がアップされているが、いわゆる「動画」らしい動画はまだ10本程度。それも古いのが6月頃からで、大半が今年の8月以降。ようするに最近になってやっとそれが作れるようになった。しかも、曲がりなりにも作れるようになっただけで、ちゃんと理解できているわけでは全然ない。

動画を作るには①撮影→カメラの知識・操作能力、②編集→編集ソフトの知識・操作、ナレーション等の言語能力、BGMなどの音楽的素養、③アップ→メディア関連の基本知識 等々が不可欠だが、どれをとっても「不足」だらけ。ここにはないが、これらの能力以前に、何をやるべきかを考える企画能力が要る。これも??が点く。一人での動画では、作者=俳優(声優)でもあることが必要だが、これも???だ。そして計画性も✕。

はっきり言って、失格というより「不合格」。じぶんでもかなりめげるが、それでも応援してくれるのが視聴者。誰が見てくれているのか顔も分からないが、最近はチャンネル全体で毎日150回(人?)以上の視聴がある。そしてビデオのためのデモ制作を支えてくれる、教室のメンバーたち。これらの人たちの期待?に応えたい、気づけばそれがモチベーションになっているのである。