制作中

Apple-海を渡る(部分・制作中)

数日ぶりに夕方まで制作できた。だいぶ派手派手になってきたが、まあ、こんなもの。ふざけていると思われるような絵だが、一応まじめに考え、適度な荒さを失わないように気をつけながら、の制作です。

ここでは見えない(見せない)画面下部は遅れている。なぜかというと、画面の下の方は姿勢的に描きにくいからだ。アトリエは天井が低く、画面を上にあげるとすぐ天井にあたってしまう。かといって寝そべって描くのも大変。だから下の方を描くとき、最近は水平にして描くことが多い。

以前は直接床に置いて制作もしたが、今は机の上に置く感じで、できるだけ中腰にならないようにする。が、やはり中央に近いところを描くときは手を伸ばして、中腰にならざるを得ない。なので、ついつい上の方ばかり進み、バランスの悪い絵になりがちだ(と思う)。

ポスターのような絵だが、確かにイメージもそれに近いかも知れない。あと数日で図録用の写真を撮らなくてはならない。未完成でも、なんとか見られるところまで漕ぎつけないといけない。浪費が多すぎるのか、いつも時間が足りない。

花見に行く気がしない

「絵画の明暗」ビデオ用に制作

絵画の基本レッスン用ビデオ1本をYouTubeにアップしました。明日4月2日9:00に公開予定です。教室でやったことを簡単なビデオにしただけ。6分24秒。理屈は解っているけど、どうやって作品と結びつけるかは別問題で、その最も単純な例を描いてみた。

毎日忙しいが、どれひとつとしてかたちになってこない。例えばビデオ製作ではビデオという物理的なかたちはできてくるが、そういう意味ではなく、自分の仕事としてのかたちが見えてこないということ。単に「練習」の日々。いつまで続くのか、はたしてかたちになるものかはっきりしない日々は案外重苦しい。

一歩外へ出ると花見の列。近くのスーパーまで裏通りを通って買い物に行ったが、それでも普段の3倍の時間がかかった。表通りは渋滞。今の日本では、誰でも自宅から歩いて10分以内に桜があるのではないだろうか。花見ならそれでもいいのだろうが、わざわざこうして渋滞の中を出かけていくということは別な意味があるのに違いない。

絵画―「明るさ」をつくる

薔薇を包む(水彩) F6

「明るい花を描く」には、明るい色で塗ればいいのでしょうか。それとも隣に暗い色を置けばいいのでしょうか。―正解は記事の最後にあります。

「明るい・暗い」は相対的な「感じ方」の問題です。同じ花でも、周囲が暗ければ明るく見え、周囲が明るければ花は暗く見えます。絶対的な明度を示すときは、例えば「マンセル色彩体系の中での3.5」とか6.0というふうに示します。物差しがあれば測れるのです。

「相対的」という意味は、「二つをくっつければ判る」ということです。離れていたり、あいだに別の色がはいったりすると「相対的」の意味が失われてしまいます。A、B、C、Dの4つが隙間なくくっつけば、1~4番までの序列をつけることができます。その差も解ります。「くっつける」ことが大切なのです。
 でも、現実の絵画では、離れた位置での比較をする必要が頻繁に出てきます。写真を撮って、それをパソコン上で比較するだけなら、まだしも簡単ですが、現実の制作中ではそうもいきません。それぞれのパーツが周囲との「相対的な」差別化」を生みだしてしまっているからです。そのうえ、そのことを理解している人でも「 99.9%」 の人はそれを「無視」します。“面倒くさい”からです(わたし自身も数年前までそうでしたが)。けれど、それはそれは自分の絵が“絵画”であることを否定しかねません(理由の詳細は省略します)。

 同じ色(明るさ)なのに明るく見えたり、暗く見えたりするのは一種の錯覚です。錯覚は脳の「正常な」働きが引き起こします(「正常」です。ご安心)。絵画という芸術表現は、眼から脳を刺激し、ある種の錯覚を意図的に引き起こすことで成立するジャンルですが、「どのように(脳を)刺激をすれば、どのような錯覚・衝動・行動を生むか」は、今や世界的な最先端の研究テーマだと言っていいでしょう。その簡単な参考例をちょろちょろっと(インターネットで)見るだけでも、意外に応用できるようになるものです。

※正解は、「隣に暗い色を置く」です。