陰影

編集中の動画「つるバラを描く」から

「影を落とす」という言葉がある。文字で書くとき、「陰」は遣わない。「陰」は日向(ひなた)に対して、日の当たらない側を指す語で、そもそもかたちを持っていない。間接的にしか視覚化できないのだから“落ちようがない”。

一方、「影」は光に照らされた物体が、( 陰の側に)そのかたちを視覚的に“投影された”もの、文字通り「投げだされた=落ちた」ものである。時期、時刻によってかたちも変わる。シャドウとシェイドの相違だ。

「(戦争が)人生に影を落とす」というような言い方は、両方の“感じ”を持った比喩だが、現実問題として今度のウクライナ戦争では、ウクライナの人々はもちろん、兵として戦争に駆り出されたロシアの一般人、その家族はどんな気持だろうとも思う。YouTubeなどをみると、ウクライナへの共感は解るとしても、ロシア兵をまるで“虫けら以下”ででもあるかのように扱っているものが少なくない。かつての戦争で農村から招集された多くの日本兵がそうであったように、彼ら一人一人が皆ウクライナ人を殺そうと思って銃を取ったわけではないだろう。ブチャ等での虐殺などは見過ごせないが、そうした見方もまた、戦争が私たちの心にも影を落としているからなのだろう。

「健康」をはじめ、あらゆるものが私たちの人生に影を落とす。それとは気づかないうちに、あるいは気づきながらも日々の行動をそれらに掣肘(せいちゅう)されていたりする。どうにもならないこともあれば、気づくことで変えられることもあるだろう。立ち止まり、自分の影を見ることも時には必要かもしれない。

変相-絵画はまだ終らない

同じ紫陽花(あじさい)の試作の中から3枚掲示してみる。仮に上から順に1、2、3と呼ぶことにするが、描き方は少しずつ異なっている。3枚とも同じ用紙、同じ光線条件で写真を撮っているはずなのに、なぜか1枚目だけ紙の色が違う。当然、花の色も2,3とは変わっているはず。どうしてでしょうね。

1はデッサン主体。2は色彩主体、というよりほとんどデッサンがない。3はほぼその中間。こうやってみると最も「絵画的」とわたしが感じるのは2。アジサイという「植物種」から離れて、色(明暗を含む)とかたちだけの「造形本位」の度合いが強いから。並べているからアジサイだと推測されるけれど、2を単独で見たらアジサイと認められるかどうかは半々だろう。もう一歩押せば、もう誰もすぐにアジサイとは判定できなくなる。

これはわたしの(いま現在の)感じ方であって、見る人はそれぞれ勝手に感じればよい。ただ、その場合でも、先に述べたような(1はデッサン・・のような)分析的な区別はしなければならない(その分析的なファクターは個人個人が自由に設定してよい)。なぜなら、それが「ものの見方」そのものだからだ。そのファクターが独創的であるほど、ユニークな視点(分析力)を持っているということだと思う。この場合は個人個人のフィルターと言っても、フルイ(篩)でも、色眼鏡と言い換えても内容は変わらない。

同じモチーフを、たとえばこんなふうに表現を変えて制作してみることは、絵画の質を深める有効なプロセスになる。表現(法)ではなく、アイデアの方を変えることも昔からよく行われている(絵画では変相・ヴァリエーションと言われるのがそれ。音楽の「変奏」も同じ意味ではないだろうか)。
 絵画ではモチーフ本位の「何を描くか」と、コンセプト・表現本位の「どう描くか」の論争がかつてあった(らしい)。わたしはそのあとの世代だが、その時代のコンセプトとは別に、若い頃は「何を描くか=テーマ」が大事だと思っていた。当時は絵画が社会的メッセージとしての力をまだ持っていると思っていたから。
 今は?―わたしは「絵画の歴史的生命」はすでに尽きた、と考えている。けれど同時に、絵画はまだまだ終わらないとも思っている(残光?)。説明は省略するが、そこが人間とAIまたはロボットとの違いだと思っているから、とだけ言っておこうかな。

紫陽花(あじさい)の季節が来た

「紫陽花」を描いてみる

「青いカモメ絵画教室」の各クラスに「アジサイ弾」を“お見舞い”している。皆さん、それを喰らって悪戦苦闘の様子。

「4、5月で2枚描こう」というキャンペーンのもと、写真と現物モチーフという材料はすでに手もとに在る。アジサイはオマケのモチーフ。「紫陽花(アジサイ)」はもともと難しいモチーフだが、その前のモチーフが簡単かというと、決してそんなことはない。どんな花でも(花に限らないが)簡単なものなどあるはずがないのである。

先日「第9回青いカモメの会絵画展」というビデオをYouTubeにアップした。出品者39人に対して、アップから3日目の現在 214回の視聴ということは、「青いカモメの会」出品者以外の人も見てくれているということだ。
 発表するということは誇らしいことであると同時にストレスでもある。「恥ずかしい」「こんなレベルでみっともない」などと思うからだが、裏返せば「本当のわたしはもっと上」と隠された自信を持っているからでもある。その自信を崩されるかも知れないという不安がストレスなのだろう。ほとんどの画家たちは皆相当の自信家だが、それにふさわしい作品を毎回出品することはベテランといえども難しく、何度も「恥ずかしい作品」を出品する羽目になる。けれど何歳になろうとそれをバネにし、伸びてくるのが画家と呼ばれる連中に共通する性質だ。わたし自身の経験でも、他人の作品と比べることでようやく理解できたことは少なくない。いくらアートが最終的には個人的なものだとはいえ、最低限の客観的な視点を持たなければ、ただの「独りよがり」の絵になってしまいかねない(そういう絵がダメだとも言い切れないが)。そうした客観性のある視力を養成する最もストレートな方法のひとつが、わたしの場合は「出品=恥をかく」ことだったと当時も今も思っている。

今日は(も)紫陽花(アジサイ)にチャレンジした。これまでにも100回くらいは描いているはずだが、記憶に残る「まあまあ」は数回あるかないか。ほかは「恥ずかしい」絵ばかりだが、それを隠してしまうこともまた恥ずかしい気もしないわけではない。