戦争をするヒト、動物を助ける人

時々だが、動物を助けるビデオを見る。路肩に捨てられ、栄養失調で餓死寸前の子猫だったり、泥沼にはまった像や鹿だったり、プラスチックなどの異物を呑み込んで食物が摂れなくなった蛇や亀、脚に釣り糸が絡まって魚をとることができなくなったカモメや猛禽類などなど、動物の死の様態も様々だが、人間が原因であるものについては、人間が助けた映像を見ると、どこかホッとするものがある。

野生の肉食動物は狩りをしなければ生きていけない。イヌワシは毎日1キロの肉を食べなければ身体が弱り、飛ぶ力を失って、結局は死ぬしかないという。肉屋で調達するように、ちょうど1キロの肉が毎日あればいいのだが、そうはいかないのが野生という環境だ。今日の1キロの肉にありつくためには、たとえ相手が体重50㎏の狼でもチャレンジする以外に生きる途はない。狼もまた同様に腹を空かせていて、たとえ1㎏でも肉を口にしなければ、明日のわが身の保障など何一つない。まさに双方必死。文字通りの食うか食われるかの戦いになるわけだが、これは人間的な意味での「争い」ではない。争いは「同種」の「利権をめぐる戦い」のこと。人間から見ていかに激烈であろうと、それは「食餌」行動以外のなにものでもないのである。

私たち人間は、野生の肉食動物のように毎日獲物を探して歩き回り、狩猟中に獲物である動物から反撃され、瀕死の重傷を負うリスクを犯さなくても、お金さえあれば1㎏だろうと10㎏だろうと欲しいだけの肉を手に入れる事ができる。人類だけが手にすることができた「文明」というもののおかげである。
 動物と人類との大きな違いは「貯金・貯蓄」であるともよく言われるが、確かにそうかもと思うところがある。(肉食)動物の一部には、クマヤトラなど死骸に草や土をかけ、他の動物から隠して数日間の狩猟のリスクを下げる「備蓄」的な行動をとるものもあるそうだ。が、大体はほぼ他の動物との分け合いになる。他の動物もまた、生きるのに必死だから。

ヒトだけが戦争をする。戦争をする理由は「どうしたら貯金・貯蓄」をより大きくできるか、である。自分だけが、より「豊かで、安全に」暮らすためにはより大きな蓄えと、他人をできるだけ遠くへ(できれば永遠に)追いやることが(本能的にも)効果的だ、と感じられるのだろう。「安全保障」という名の縄張り争いの、最終的なゴールだ。
 文明によって作り出された「富(豊かさ)、安全」というイメージ、それを「発展」させることが「文化」の使命であり、その論理の先に戦争が生み出されたのだとすれば、矛盾であるだけでなく、それ以上に滑稽でさえある。その「文化」が、一方で戦争ををストップさせようともがいている図は、確かにシビアな問題ではあるが、俯瞰的に見れば自分の尻尾を自分が追いかけているような、馬鹿馬鹿しくも哀しい、人類の終末を見ているような気分にもなる。

アナログ-デジタル

これは、わたしのいわば「パソコン単語帳」。その中でもビデオ編集ソフトの使い方に関わるところだけ。しかも、全部じゃない。「ほ~っ、勉強家ですね」なんて言ってもらいたくて出しているわけではない。このアナログぶりを、我ながら呆れているところを見せたいだけなんです。

たぶんYouTubeに動画などをアップしているせいで、わたしはパソコンが得意だと思われているケハイがある(“パソコンが得意”という意味がそもそも分からないんだけど)。パソコンを「使いこなしている人」は、こんなドジでアナログな手書きメモなど書くわけないんですよ、はじめから。そんな人にこのメモを見せたらたぶんゾッとするでしょうね、まるでゾンビか1000年ぐらい前のミイラがそこにいるような気がして。

「ヨースルニ、ワタシハパソコンガトクイデハナイ」ってだけのことなんだけど、さらに始末が悪いのはこのメモを読み返すヒマがないってことと、やたらにメモだけが増えてテーブル上にも溢れてくるってこと。はっきり言って、“無駄×無駄”。なのに捨てられない人を、現代の文化人類学では「アナログ人」と定義するらしい(ウソ)。

では、「デジタル人」は?―わたしのパソコンは(わたしを小ばかにしているのか)、わたしがナンニモシテナイノニ、勝手に数値を書き換えたりして意地悪をする。そのくせ、子どもが救援に来ると、何ごともなかったかのように、素直に『自ら』トラブルを修正する。その時、“パソコンから見た”彼のことを「デジタル人」と現代文化人類学では定義する(ウソ)。じゃあ、パソコンからではなく、わたしから彼を見たら?―ただの「若い人」なんだがなあ。

ランプに灯をともす人

英国ロンドンで、街灯をガス灯から電灯に替える案に対して、残すべきだというキャンペーンについての記事を、BBCワールドニュースで見た。ロンドンのウェストエンドと呼ばれる地区(ウエストミンスターシティ?)にある275個の古いガス灯を電気に、すでに電灯に置き換わった30個をLEDに替えるということにまつわるストーリー。

メリーポピンズ、マイフェアレディやシャーロックホームズの世界に我々を連れ戻してくれる、それがロンドンという「生地(fabric)」の一部だという、“いかにも”な意見も紹介されていて、当局もその雰囲気を壊さないよう、「ガス灯のような効果」をアピールしてしているようだ。すでにLEDに交換された“ガス灯”の写真も載っているが、もともとを知らないからわたしには判定の仕様がない。
 ロンドンには15000を越える街灯があるらしいが、そのガス灯に毎夕灯を点けていく仕事をしていた老人がいよいよリタイアする、という別の記事もだいぶ前に見たのを思い出した。それも、いかにも“英国らしさ”を感じさせる、いい記事だった。

BBCだから、なにより写真、映像がきれいだ(ちなみにナショジオも同じ理由で、もう数十年購読している)。そこに映る人々の表情も素晴らしい。英文記事が読めなくても、インタビューが全然聞き取れなくても、それを見ているだけで癒される。
 イギリスは古い国だが、世界の流行の発端を創りだす新しいアイデアの国でもある。たとえばポップアートやロックンロールなど、歴史の深さとそこに生きている生活と思想との重なり方が、同じように古い歴史を持つ日本とはどこか似て非なるものを感じる。外からうわべのきれいごとだけ見ている面もあるだろうが、同じように保存キャンペーンを取り上げるにしても、すぐに「反対運動」としてだけ報道したがる日本のマスコミに、一灯一灯ランプを灯してあるく老人の、なんとも言えない「人間の顔」は映せないだろうな、と思ってしまう(写真を載せたいが、権利の関係で無理)。