「完成」ということ

            「アジサイの構成」  ペン・水彩

上は制作中。下が完成作。2枚を並べてパッと見えるのは、制作開始直後の「鮮度」。何を描こうとしているかが制作中の絵では単純明快なのに較べ、下は画面全体に目配りがされ、そのぶん逆にインパクトが弱くなっているということ(撮影場所を替えたので色が異なり、別作品のように見えるが)。別の言い方をすると、上の段階で止めておけば良かった、のかもしれない。実は多くの人が毎日のように、「あそこで止めておけば」という経験をしている(はず)。

けれど、それは結果論であって、現実にそこで止めることはほぼ不可能なこと。その時点で完成作は(ある程度予測はできているが)まだ存在していないのだし、作者の頭には “希望” しかないからである。そこで止められるようになるには、非常に多くの痛く、苦い経験と、それによって深化した造形思考の蓄積が必要だ。

で、要するに完成作が途中段階より悪くなったんですか?といえば、そんなこともないと思う。確かに鮮度は少し鈍くなったかもしれないが、そのぶん見る楽しみは増えています。作品の中身というのは鮮度だけではないのです。美味しい刺身だって、切れ味鋭い包丁さばきと落ち着いた環境やいい酒と合ってこそ美味しいものでしょ?釣れたての、まだ生きている魚にいきなりかぶりついたってそれはそれ、なんです。素材の鮮度はもちろん大事。それを料理する腕も劣らず大事。なんて、言い訳に聞こえているでしょうか。

芍薬 Peony

       「芍薬」   コピック
    「芍薬」  水彩

気象庁発表によると、昨日は全国で200か所以上で真夏日(最高気温30℃以上)を記録したそうだ。今日もそれくらいになりそうだ(「外出は控えましょう」という公報メッセージが今朝も出ている)という。―バイオリズム最低。こういう日はただ生きていることさえ億劫になる。年齢に関わらず、元気な人が眩しい。

花に追われる

         「アジサイ」  ペン・水彩
     「芍薬」  ペン

蕾で買ってきた芍薬が開いてきた。5、6個ある蕾のうち2個がほぼ同時、次いでもう一個開いてきたが、スケッチしている時間がない(いいわけ。ぶらぶらしている時間はたくさんある)。

冬から早春にかけては野の花、たとえばホトケノザやオオイヌノフグリなどは、お店で売っている花よりわたしには好ましい。が、摘み取ってきて描くというにはちょっと小さすぎる。
 その点、桜をはじめ紫陽花(あじさい)、牡丹、芍薬、薔薇、藤、躑躅(つつじ)など春本番の花々はいずれも豪華絢爛。あちこちの家の庭、垣根にもわんさか増えてくる。中には絵を描きたくなるような庭や花もないではないが、声をかけるほどの勇気はない。

あるとき、通りすがりの家の窓下に、きれいな大輪の薔薇が道へはみ出すようにずらりと植えられていた。思わず足を止め携帯で写真を撮った。それをたまたま家の人がカーテン越しに見ていたのだろう。「あげましょうか」と声をかけてきた。辞退したが、ちょうど小さな鉢に挿し木?したのがあるから帰りに持っていって、という。きれいな薔薇だったが、なぜか一年で枯れてしまった。あそこの薔薇はきっと今もきれいに咲いているだろうと思う。