Take your time – 自分の時間

「園芸ショップにて(エスキース)」水彩 2023

自分の時間はどのくらいあるのだろう。これから何年生きるかによるけれど、現実には誰も自分の寿命を知ることができないわけだから、計算などするだけ無駄という気もしないではない。それでも、そろそろラストを考える年齢になってくると、“終了式” の段取りがしたくなってくるものらしい。

あと10年、というのがわたし自身の(単純に感覚だけの)寿命予測。睡眠や体調不良による“何もできない” 時間がその3分の1、少なく見ても3年半。仕事など生活のための時間がやはり正味で3年くらい?わたしには何の蓄えもないからもっと長期間必要かも知れないが、その時にはもう体が動かないだろうから、たぶんそんなもの。

それ以外の時間、絵を描いたり(そんな余裕があるか疑問だが)、文章を書いたり本を読んだりする時間、たまにはゆっくり美味しいコーヒーを味わうとか・・それが3年くらいだろうか。それで10年になる。ただ、この「3年」は正味の時間だから、仮に何かを研究するつもりなら、ちょっとした小さなまとめくらいはできるかもしれないほどの時間。絵なら、自分の本当に残したい1枚くらいは描けるかもしれません。そんな絵が出来たなら、自分としてはそれで十分で、そのまま死んでもいいと思っています。たぶん周囲も喜んで見送ってくれるでしょう。でも、病気などしたらその真逆。迷惑をかけるだけで終わってしまいます。それだけは気をつけねば。

あらゆる意味で、ラストチャンス。失敗してももう後がありません。来月、銀座でグループ展に出品しますが、ちょうど10回の区切りを迎えるので、それを最後にもう銀座や上野、六本木などへ出品することはやめるつもりです。せいぜい埼玉県内だけ。といって、「まなじりを決して」というほどの切迫感でも悲愴感でもなく、やれるところまでやる、中途半端で終わるならそれはそれでよし、という平易な気持で残り10年に望みたいと思っています。自分の残り時間を、自分のペースで最後の消費をする、ティク・ユア・タイムと自分に言い聞かせながら。自分の時間を他の誰かに残せるわけでもないし、ね。

秋めく

「ポピーの咲く橋」 水彩 F4

台風13号の弱まった熱帯低気圧が関東を通過した金曜日は、青いカモメ絵画教室の夏休み明け初日でしたが、台風情報に煽られて、教室を中止にしました。翌日(9月9日)は、台風一過とはならず、低気圧らしいぐずつきがまだ残ったまま。翌9月10日(日)もやや曇りがちでしたが、とりあえずの晴れ。そのぶん気温は高く、真夏日が戻ってきた(実は9日も真夏日ではあったが)。

今日9/11(月)から実質的な教室再開。暑さでほぼ描けなかった人、晴天(炎天!)に恵まれ、あちこち遊びまわり過ぎて描けなかった人など様々でしたが、感心にも新しい画面を描いてきた人がいたのは、ちょっと嬉しい“予想外” 。皆の刺激になったかもしれません。午後からの教室が終わる頃には、天気も秋晴のようなすっきりした空に変わってきました。まだ暑いことは暑いけれど、暑さの芯が無くなってきて、空気の透明度も増してきたように見えました。
 そういえば、ウオーキングをすると、半分以上の田んぼではもう稲刈りが終わっています。今年は7、8月の全国の平均気温がこれまでの最高を大幅に更新(気象庁)したこともあり、稲刈りの時期を早めたのだと思われます(各県農業技術研究センターの公報などを見ると、高温の時は「刈り遅れ」が「割れ」などの品質低下になると注意を喚起していました)。

「秋めく」は俳句の季語としてもよく知られています。歳時記では、「目にも耳にもはっきりと秋のたたずまいを感じるようになる」とあります。空気が澄んで、遠くの山が少し近くに見えるようになる、遠くの音がよく聞こえるようになる」のですが、「人生の秋」はすべてのものが「目からも耳からも」遠ざかるようになっていきます。つまり、気象と生理とでプラスマイナスゼロってことでしょうかね。九月も平均最高気温を更新するかも知れません。

ときどき、詩人

キャンバスからCGスケッチ

ときどき詩人になるのがいい、と思う。世の中動くのが、少しどころでなく早すぎる。自分の周りを、壊れた走馬灯のようにグルグル早回しで回っている感じがしてならない。眼を閉じるか、あるいは目の前の小さなものだけをぼんやり眺める、そんな時間が必要ではないかと思う。いや、そうしないと、実は自分が死んでしまっていることにさえ気づかないまま死んでいるかも知れません。

「時々詩人になるのがいい」というのは、もちろん、詩人がのんびりして暇そうだという意味ではありません。単にのんびりリラックスすればいい、というわけでもありません。「詩人」はもちろん比喩ですが、画家でも音楽家でも、運動家(スポーツ)でも、何でもいいというわけではありません。やはり「詩人」がいいのです。

詩人は自分の感覚や周囲のことがらを言葉に置き換えていきます。”言葉に置き換える” ということが重要です。わたしたちは言葉で自分の考えをまとめあげているからです(そういう意味では数学者(科学者)でもいいかも知れませんが、わたし自身が想像できる範囲を超えています)。

あくまで比喩ですから、実際に詩を書く必要はないのですが、ほぼ詩を書くような気持にならなくてはなりません。それが難しいのは確かですが、それが出来なければ「走馬灯ぐるぐる」をずっと見ているしかありません。「詩人」は唯一そこからの脱出口なのですから。
 でも、なぜ詩人?とあらためていうと、なぜ脱出するのか、その結果どういう意味があるのか(あったのか)、詩と走馬灯の関係などを、言葉にして記憶しておく必要性、詩を作らなければならないからです・・分かったような解らないような。疲れていますね。