明るい高慢さ

「Apple-丘の眺め」テンペラ  2004年

ポジティブ思考(嗜好かも)が、多くの人の深いところに沈潜して、ことあるごとに顔を出しては人を痛めつけることがある。わたし自身の中にもすっかり入り込んでいて、何か落ち込むようなことがあると、つい、「元気出さなきゃ」なんて無理してしまう。

いつもいつも明るく朗らかで、何にでも前向き、落ち込むこともなく、周りまで明るくする人。そんな、太陽みたいな人がかつてのテレビや漫画の主人公だったけれど、さすがに現代では、そんな間抜けた人間は主人公にはなれなくなった。

子どもは大きな夢を持たなくちゃダメだ。若い人は高い理想を持って世界に羽ばたかなくちゃいけない。ショボショボして、ちっぽけな自己満足などしているようじゃ(男の)クズだなんて堂々と人前で言う、恐ろしい時代があったけれど、そういう時代はもう過去のものになったんだろうか。そんなの余計なお世話だよ、って言える時代になっているんだろうか。そんなことはない。だってわたし自身がそう思っていた時があったし、今も心のどこかにそんな気持ちが残っているのが分かる。

子どもの頃、テレビを見るたびに「どうしてアメリカ(の白)人たちはあんなに明るいんだろう」と不思議だった。わたしの周りには誰もそんな人は居なかったが、テレビの中では大人も子供も皆活力に満ち、自由そうで、そしてやたらに誰にでもキスをしていたのだった(そういえば黒人たちのキスシーンは見た記憶がない)。
 あの電灯のような明るさと、民主主義はどこかで繋がっている、そんな気がしていたが、そうではなかった。あのポジティブな明るさは高慢さそのものでもあったのだ。ウクライナ戦争とイスラエル戦争のアメリカの立ち位置がそれを示している。
 負けないように強くなればいいのよ、ケチケチしてないで金持ちになればいいのよ、金持ちになれないのは努力が足りないからよ。そう言って、影と日なたを二分してきた人々の国、あの明るさに憧れてきたんだなあと、今さらに思うよ。

次の動画、頑張ろう

奇数日にブログを書くと年初に決めてから、うっかりミスは数回あっても、まあまあ9月中まではそのポリシーを維持できていたのに、10月中盤から、それがガタガタに崩れてしまいました。10月のグループ展への出品作は8月中に終えていたので、制作で忙しかったからでもありません。腰痛は大きめのマイナス要因ですが、感覚的には必ずしもそれのせいとも感じていません。

一見、「常識」とは矛盾するようですが、体調が悪かったり、忙しくて集中できないような状況の時に、かえって「いい仕事」ができたりするようなことがあります。腰痛もずいぶん良くなり、出かける用事も少なくなってきたので、ぽっかりその逆バージョンに陥ってしまったのかも知れません。

先日のスケッチ会での動画を編集中です。これまでの動画は、内容はともかく自分で見ていても楽しくない。まるで、先生が教科書を棒読みするようなひどい授業(今はそんな授業などあり得ないでしょう)のようです。もっと面白く、寝そべってスナックでもつまみながら、笑って見てもらえるような動画を作りたいとは思っているのですが、勉強すべきところが間違っていたり、そんな目標とは程遠い有様です。
 グループ展を抜けたのも、実はそのための時間をもっと取ろうと思ったからでもあります。動画をもっと頑張ろうということですね。

団地の夕陽(試作)

「団地の夕陽」試作 この絵はウインクすると、よく見えます

銀座でのグループ展、「風土に生きる・第10回展」を昨日(2023.10.28)終了しました。

このグループ展はこの後も続くことになりましたが、わたし自身はこの10回展を以て、(すでに公表しているように)離脱することにしました。それは自分自身の考え方によるもので、展覧会やメンバーに対する不満があったわけではありません。むしろ、10年間良い勉強をさせて頂き、感謝以外にありません。

「夕陽」試作です。(一昨日の、未完状態よりつまらなくなってしまいましたが)この段階においても、いくつも技術的な問題が出てきました。それは次の試作で解決されるはずですが、そこで、また新たな課題が出てくることでしょう。その繰り返しで一つの作品に結実すれば言うことはないんですけど、作品ができるにはそんな解りやすい道筋ばかりとは限りません。むしろ、そこから絵画の旅が始まるとでもいうようなものです。