椿―Tsubaki

庭の椿を3枚ほど描いてみた。これまでに何枚この椿を描いたか数えてないが、少なくとも10枚は水彩で描いているはずだから、ある程度までは見なくても描ける。けれど、実際に見るとやはり植物も “生き物” だということをいつもいつも強く感じる。「生(せい)のオーラ」がわたしにも降りかかってくる。

白い花に赤い斑(ふ)の入っているのが美しい。花は大きく立派だが、それを支える “首” のところがなぜか不釣合いに細く、花の重さを支えきれない。だから、ほとんどの花が下をむいてしまう。これは “品種改良” 中ゆえの問題だろうが、 “当事者” である椿にとっては「どうしてくれるんだ!」とでも言いたいに違いない。

おそらく、この椿は赤い花の台木に白い椿を継いだものだろう。その証拠に、ときどき先祖返りして、真っ赤な花が全体の中で1輪くらい咲く。木も「血筋」を主張しているんだろうね。そう考えると、この赤い斑が一滴の血のように見えてくるから不思議なものだ。

ホトケノザ
オオイヌノフグリ
羽化-ペン

今日は23度まで気温が上がった。春というより初夏に近いような日差しで、持って行った帽子、サングラスが役に立った。Tシャツでウォーキング。ジーンズが汗で脚にまとわりつくような感じがした。3日連続のウォーキング。小さな土手を挟んだ川の向こうでは少年野球の練習試合?が2組。昨日も2組やっていた。駐車場は親などの関係者の車で一杯。近くの小学校のグラウンドでも別の子どもたちが練習をやるなど、絶好の野球日和だったようだ。

市営の釣り堀では小学生がデビューしたらしく、まわりに常連の爺さん、婆さんが集まった真ん中でヘラブナの竿を下げている。珍しいこと。長閑なものだ。足元にはホトケノザがだいぶ前から(ホトケノザを真近にみると、結構変わったかたちの花です。また、その名の由来も納得できますよ)咲いている。最近は青く可憐なオオイヌノフグリ、ハコベが増えてきた。ベニシジミはもうとっくに見たが、今日はモンシロチョウも飛んでいた。春だなあ。桜はまだかいな。

言霊(ことだま)

           「モデルスケッチ」  水彩

言霊(ことだま)というのは、むかし文章を書く人たちの間で「一つ一つの語句、文にも魂が宿り人に伝わるから、けっしていい加減な言葉をつかうべきではない」という戒めとして、よく言われていたらしい。

わたしはひねくれものだから、絵画などの造形表現がそうであるように、革新・破壊をもっとする方が良い、などとまるで今のトランプ氏のような考えで、言霊なる単語自体を軽視していた。

けれど、最近になって、それはわたしの浅はかな理解だったのではないか、と思うことが多くなった。それはむしろ「有言実行」に近い意味を持っているのではないか、ということ。有言云々もまた少し解釈がずれるが、それ自体が逆説的な言い方であって、「『実行(実現)したいならば』有言する意」でもあり得ると。
 他人に対してだろうと、自分に対してだろうと「言葉に出して言う(書く)」ことは、その瞬間からそれは自分を離れて独立した一つの「新たな存在」となる。その存在が自分を縛り、同時に先へ進める推進力ともなる。そんな意味を持っているのではないか、ということである。むろん、もともとの意味は初めに述べた通りであろうが。

言葉を慎めと言うだけでなく、可能にしたいことを言葉にすべきだということ。そしてさらに言えば、望まないことを言葉にしないということにもなるかもしれない。いわゆる「忌み言葉」には、きっとそういう感覚が宿っているのだろう。言霊のほうが自分より上位になって、自分自身を変えかねないという、ある意味で怖い感覚でもある。「良き言葉、悪しき言葉も自分に還る」それが言霊の真意ではないかと。