「羽化」のためのエスキース

         「羽化」のためのエスキース  色紙に色鉛筆

今日は2025年の立春です。壁に「飛ぶ男」のシリーズの小品一枚が懸けてある。様々な想いと新しい(当時の自分にとっては)表現法にチャレンジしたF4サイズのテンペラ画だ。技術的には大したことはないが、若さの故か、発想から表現までのテンポがよく、ときどき現在の制作のスピードと比べてしまうときがある。

おっと、脱線だ。その、男が空に浮かんだ絵と「立春」という語感、現在継続中の「Appleシリーズ」?の3つが頭の中でスパークして、この発想が浮かんだ。近年の「Apple 」もスタートの時と考え方が少しずつ変化してきて、新作への新しい気分を求めているところだった。

絵というのは、それが具体的なモチーフであろうと抽象的なものであろうと、自分の頭の中にある程度、ゴールのイメージが見えていなくては描けないものだ。その意識のシステムは、人類の進化の歴史とどこかでDNA的に繋がっていると感じる。学生のころ、アルタミラの洞窟壁画の精細な調査写真や記事を見た時の衝撃と、3歳の子には3歳なりの生活経験があり、それを基にイメージが湧いているんだなあ、というお絵かきの絵とが結びつく。あとは偶然の動きが呼び覚ます身体感覚。AIの示す「絵」とは根本的に別な世界である。おっと、また脱線。

発想が自分の中のものとの結びつきが強いほど、頑固に執着して、イメージが膨らまないと思いやすいが、実際はむしろ膨らんでいく。よく知っているものは深く豊かな内容を持っていて、多角的な視点から眺めることが可能だからだ。むしろ外からの経験や知識だけの方が視点が一つに絞られやすい。また、どんなに膨らんでも自分の世界観を超えることはたぶんできないが、無意識の内に内在していたものが、新しいイメージとして見えてくるということはあるだろう。自分自身で固定させてしまっていたボーダーラインを外側へ緩めていく。あるいは掘り下げていく。創作とはそういうものだ、という気がする。
 さて、わかった風なことを書いてしまったのでこのあとが怖いが、この発想も今はまだ「ありきたり」の端っこに漂っているだけだ。この先の航路はまだ不明だが、立春の日にとりあえず描き留めておく。

目がショボショボです

とりあえずアップロードしました。ご高覧あれ

野生の動物だって目がショボショボになることはあるはず。だいぶむかし犬を飼っていた頃、何度か犬が眼病にかかり、目薬など差した経験からもそう言える。猫もそうだった。カメレオンなどある種のトカゲは自分の下で眼を舐めてきれいにする。複眼を持つトンボも、よく見ると前足でしょっちゅう目を撫でている。もっともあれは「眼精疲労」などではなく、たんにゴミ?を掃っているのだろうけど。

動物も病気にかかるけれど、たぶん「病気」という概念はないだろうから、たんに「苦しい」「痛い」という「感覚」の中だけにいる。もちろん医者など知るわけはないから、調子が戻るまで、ひたすらじっと耐えている。

いちど、子犬が車に轢かれそうになったことがある。雪道で、チェーンを巻いた車の中に跳び入ってしまった。下敷きになるのは免れたが、回転するチェーンの端っこが眼に当たったらしく、キャンキャン鳴きながら、大きな下駄箱の奥の方に潜り込んだきり、出てこなくなった。食餌も取らず、じっと奥に潜んだまま数日。やっと痛みが薄らいだのか、空腹が勝ったのか、出てきた時は眼窩の一部が切れて晴れ上がり、眼球は白く濁ってしまっていた。―これは失明する―と思ったが、当時は動物病院などという洒落たものはなく(そもそも人間の医者さえいない「無医村」だった)、ただ見守るしかなかった。

驚いたことに、成長期だったせいか、数カ月で眼の白濁はすっかり消え、視力も回復した(ようだった)。自然の治癒力の凄さを見た思いで、今もよく覚えている。
 遠くをぼんやり見る―それが一番目を休めると眼科医に聞いたことがある。いま自分がやっていることは、その真逆。ショボショボになるわけさ。