新年の青

「冬の漁港」のための習作

教室でのデモ制作。正月らしい、旗で満艦飾の漁船でも描きたいと探してみたが、ちょうどいい資料写真が見つからなかった。白い雪と一部の赤で新年の気分になって頂けると有難いです。海の絵では何と言っても波の表現がすべて、と言ってもいいほど重要でしょう。

というわけで、さざ波の練習をしました。あたりまえですが遠くの波は小さく、手前の波は大きい。小さく描くにも限界がある。現実や写真では、見えてはいても、描けるかどうかはまた全然別。だからできれば描かずに済む方法を考える。描いた方がいいなら、どういう描き方が適当か、紙との相性も含めて、いちど描いてみる。

練習を重ねればうまくなるのは確かだが、絵というのは上手ければいいというものではない。そこが絵というものの深さへの入口。練習ではいつもうまくいっているのに、本番で失敗、というのは普通にあること。しかも、その「失敗」の方が、芸術的に?良かったりするのはスポーツなどと違うところ。―じゃあ、練習してもしなくてもいいんじゃない?確かに。そうかもしれんし、そうでないかも知れん。

それにしても、この船の用途は何だろう。ウインチがあるところを見ると、網を巻き揚げる船だろうか。わたしの記憶にはないかたちだ。

絵が生まれていく

新しい作品を模索中。過去、いくつかの未完結のシリーズ?があり、「飛ぶ男」もその一つ。「シェルターの男」や「新生」もそこから派生して尻切れトンボになっている。途中で消えてしまったそれら「青の連作」と、現在進行形の赤や黄色の「Apple」とに分裂したイメージをそろそろ結びつけたいと願う。

かたちはAppleのようでもあり、「飛ぶ男」を閉じ込めたカプセルのようでもある。青の作品群の亡霊のようでもある。とにかく、まだ混とんとした状態。果たしてひとつのかたちに辿り着けるのか。いまはまだ波の泡のようだが、わたしの絵はこんなふうにして生まれていく。

夜景と透明水彩

夜景を描いてみる
「夜景ー花屋の前で」 水彩

「夜景」は透明水彩向きの画題ではないんだなー、とあらためて思う。透明水彩という技法は、薄~い絵の具層を透過した光が紙の白さを反射して、ふたたびその層を透過して眼に入る仕組みを原理にしたものだから、紙を黒々と塗ることは本来的に矛盾することになる。

ちなみに油絵具では、透明層と不透明な物質層があり、透過光と物質反射(表面反射)という、二つの視覚への通り道がある。それが油絵の重厚感と深みを生む(もっとも、現代の絵画ではこの「透明層」が嫌われていますが)。ついでに言うと、同じ水彩画といっても「不透明」いわゆるガッシュで描けば、油絵と基本的に近い考え方になります。ただし、油絵具のような透明層が無いので、それはそれでまた別の問題が出てきます。

その矛盾を和らげるには、暗い色はなるべく薄く塗るほうがいいことになる。だから、紙の白さを残すんですね。残った紙の白さとの対比によって、より暗く「感じさせる」のが、透明水彩という技法です。見たままではなく、効果を考えて描かなくてはならない。そういう意味で、油絵よりよっぽど高度で、また技術的にも難しいんです。
 少し脱線しますが、子どもには、水彩より油絵を先に親しませた方がいいというのはわたしの主張でもありますが、日本はそういう意味では「(自分も含め)周りを汚さない」「匂いがある」「荷物が重い」等々、芸術という点からみれば本質的でないことが優先順位が高い。いろいろ問題はあるが、簡単な方から始めるのがいい、というのが基本です。

話が逸れましたが、そういうことで、「夜景」は普通に思っている以上に難しいんです。なんだか弁解に聞こえますが、だからチャレンジしたくもなるんですよね。
※2024.7月11日に「夜の花屋前」というタイトルで、同じモチーフで別バージョンの絵を描いています。どうぞ比べてみてください。