色に遊ぶ

             「りんごの風景」  水彩  F4

東日本、特に関東太平洋側では晴天が続き、今日も乾燥注意報が出ている。カラッとした良い天気だが、わたしの気分はずっとウエットなまま。そんな時、こういう絵を描いて気分を乾燥させる。

赤と黄色と緑。いつもながらわたしのワンパターン。こんなにあからさまに、この三色をどれも高彩度で使うようなカラーセンスのない人は珍しい、と自分でも感じる。普通は三色のうち、一色を抜いた二色でバリエーションを作り、抜いた一色をアクセントとして使うとか、もうちょっと洒落た使い方をする。あるいは三色を交互に混ぜて(重ねて)、近い色どうしにまとめていく。ともかく、こんなにストレートでバラバラに(交通信号機のように)原色を使う絵を見ることは少ない(子どもの絵には圧倒的に多い!)。

色の無い、モノトーンの世界にわたしは憧れる。だから雪の風景はことさら心を惹かれる。なのに、絵を描くとつい鮮やかに、より純粋にと色を使いたくなってしまう。カラーセンサーのどこかが壊れているに違いない。他の画家たちの絵を見るたびに、そうだ、こんな色遣いをしなくっちゃ、と強く願うのだが、画廊を出て3歩歩くともう忘れている。

モノトーンの絵はカッコいい、大人の絵だと思うのだが、色をたくさん使うのは頭を空っぽにできて楽しい。屁理屈をこねる割にはもともとの頭がガキっぽいのだろう。それならそれでいいはずなのに、そこに自分を100%投げ込めないジレンマがある。

イチロー

「どんな生き物も、いつもわたしたちの想像を超える」  水彩

野球のイチロー元選手が、日本人として初めてアメリカの野球殿堂入りをした、というニュースが日本中に流れた。それについてわたしがつけ加えられることは何もないが、ひとつだけ、「自分にも関わること」として書いておきたいことがある。

わたしがイチロー氏を尊敬するのは、彼の成績が超人的だから、ではない。自分自身をとことん見抜いていく我慢強さと、ある種の「精神の弱さ(あるいは強さ)」とを、彼独自の思想によって融合させたことにある。野球殿堂入りへの投票では満票に1票足りなかった。そのことについて「良かった。自分に足りないものがあるということはいいことだ」と語った言葉にも、そのことがはっきりと表現されている。そして「これからが大事だ」。いかにもイチロー氏らしい、極上のコメントである。

自分は弱い、他の人に及ばないところがたくさんある、と気づく「(気の)弱さ」が彼の「繊細な強さ」の底辺にある、とわたしは常々感嘆してきた。彼の素直な感性なのだろう。そしてそれを「何とか人並みに(少なくとも「あいつらより上に」などと思い上がってはいなかったに違いない)」の努力をたゆまず、人の意見は参考にはしても、結果はすべて自己責任とする「イチロー的」思想を胸の中に育て上げ、結果としてあの高みに達したのだと思う。一つ一つは誰でも少しはできること。けれど、ほとんどの人が途中でサボるか諦めるかの二択になる。

たとえばイチローを有名にした、独自考案の「筋トレマシーン」がある。当時は、もともと体力に優れた米国などの選手たちにとって、筋トレなど、いくらトレーナーに説かれても心底から必要性など感じられていなかった。けれど、日本人の中でさえ体格の大きい方ではないイチロー氏は、渡米一年目にしてすぐ好成績を残しながらも、心の中では米国選手との体力差を肌で感じたのに違いない。「今と同じことが明日も、来シーズンも出来るのか」、そんな不安がぬぐえなかったに違いない。そして、選手や米国マスコミからの冷やかしや嘲笑を浴びながらも、黙々と筋トレマシーンに向かうしか選択肢はなかったに違いない。走ること、投げること、考えることのすべてにおいてそれは続けられた。
 そして身に着いたのは筋力、体力以上に、他人がどう言おうと自分の感性を信じ実行する、という「精神の強さ」だったとわたしは思う。それがわたし自身と比較しての、(比較はわたし個人にしか意味がないが (^-^;)イチロー氏の偉大さだ。

手順

「モーニングコーヒー」 水彩

絵を描く場合、油彩よりは水彩の方が、手順に関してシビアである。解りやすく言うと、油彩はどんな描き方をしてもだいたい似たようなゴールに辿り着けるが、水彩画では悪い手順を取ると悲惨な結果になる、あるいは辿り着けないということ。

それは個人的なテクニックなどとはほぼ無関係で、水彩画の原理そのものに理由がある。油絵は明るい方へも暗い方へも自在に進めることができるが、水彩画は暗い方へしか進めない。それをどういう風に進めていくかの順番、つまり手順が狂ってしまうと、もとの明るい位置に戻せないということ。そのことは誰でも一度や二度は失敗して、皆さん経験済みだろう。

だから、水彩画の習作では、構図、構成の検討以外に、実際に描いてみて手順を確認することが少なくない。
 絵のことだけでなく、社会には「ボタンの掛け違い」というのがある。最初のボタン穴の位置を間違えると、途中で気がついてもなかなか修整できないまま、ズルズルと関係がこじれてしまうことを言うが、水彩画もそれとそっくりである。途中経過を3枚掲げてみたが、これと異なる手順を踏めば、違ったゴールに行きついたはずだ。(ちなみにこの習作には遠近法的な誤りがある。忘れないうち修正をするが、それは手順違いでも修正できる範囲内である)