スケッチが感性を養う、かも?

「鎌倉にてー1」水彩F4
「鎌倉にてー2」水彩F4
②のディテール(下塗り効果)

水彩教室でのデモ制作で2つのバージョンを描いてみた。モチーフは鎌倉の国宝「円覚寺山門」。課題は「下塗り効果」。用紙サイズは同じでも、対象物を大きく描くか小さめに描くかで、省略の仕方が想像していた以上に違っているのが一目で判りました③。

①は現実に近いですが、②は距離感が創作です。。実際の山門は階を上がるとすぐのところにあり、こんな距離感はとても取れません。人物との比率を変えるだけでこんなに空間感が違ってくるんですね。制作時間はだいたい同じくらいか、①の方が軒下の描写が細かい分、少し長いかも知れません。

この山門はすでに何枚も描いていますが、描くたびにその美しさが少しずつ分かってくる気がしますね。また行かなくちゃいけないな、とも感じさせられます。そして(写真ででさえ)、描くたびに、人間の感覚って凄いんだな、という新しい発見がある。日本の中でさえこんな繊細な建築がある一方に、縄文時代の火焔土器のダイナミズム、日光東照宮のデコデコのバロック?建築などを軽く超える、もっとぶっ飛んだ幅の広さがある。視野を世界にまで広げたら、もっともっととんでもないものだらけかもしれません。

わたしが感動するのは、これらが決して「美」を目的にしたものではない、ということ。円覚寺山門は現在「国宝」指定ですが、この建造に関わった当時の人々は、自分たちがいま造っているこの山門が、将来国宝になって欲しいなどと考えながら造ったわけではないでしょう。それでも、そのすべての過程において「ここはこうした方が見栄えがいい」と感じ、その感性に合わせて合理的に木を切り、削っていたに違いありません。ただそれだけのことですが、それが凄い。
 「美」なんて、きっとそんなもんだと思うんです。そして、それが「決定的」だ、とも思うんです。「美」を作ってやろう、しかもあろうことか「感動させたい」なんて現代人は言いそうですが、おこがましいにも程がある、とわたしは思うんですけどね。あ、また、脱線しちゃった、ごめんなさい (>_<)。

藤澤伸介展‐急げ

表参道・六本木ヒルズの顔「同潤館」。個展会場はこの2階右側
森には小さな焚き火がある。温まっていきなよ
想像力さえあれば、いつでも来れる森だぜ
森の四天王
森に棲むものたちが、珍しそうに青山通りの人間どもを眺める

11月20日(水)東京渋谷区、表参道ヒルズでの「藤澤伸介展」を拝見してきました。場所は東京の目抜き通りの一つ、表参道。再開発で作られた表参道ヒルズの一角に、日本の近代建築の出発点のひとつ、「同潤会アパート」の外観(一部)が建築遺産として保存的に残されています。そこの小さな画廊スペースに “森を持ち込もう” としているのを感じました(以下 “Takashi” の独善的感想です)。

いいDMですね。ご案内を頂いたとき、この一枚で作家が何を伝えたいかが解るような気がしました。そして会場に貼られた一枚の手書きのメッセージ。独自の暖かみのある文字を含め、全身で表現する姿に感動します。この会場を選んだこと自体がすでに彼の表現であって、決して偶然ではありません。

冒頭、“森を持ち込もうと・・” はわたしの語彙不足ですね。森の自然や大きさ、深さを、もし作者の手で “持ってくる” の意味に感じさせてしまったなら、それは藤澤さんの真意とは真逆の感覚かもしれません。
 彼の表現したいのは“『森』への畏怖と憧憬” 。「尊敬」に近いとさえ言っていいかも知れません。海の泡、淡いみどりの葉のように生まれ、枯葉のかけらのように消えていく無数のいのちの端々、そこに束の間現れる断片的な夢の言葉、言葉を持たない生き物たちの、蠢き(うごめき)やわずかな振動だけで伝わる、微かで必死なコンタクト。それらが見せる、笑いとも泣き顔とも言い得ぬ、こわばった小さな貌(かお)たち。そうした森の奇跡の粒々を、藤澤さんは土や木や針金、カッターナイフなどを使って、必死に拾い集めてきたように感じます。

「龍の棲む森」は、藤澤さんのイマジネーションですが、そこに彼は君臨してはいません。主はもちろん「龍」。藤沢さんはそこでは一介の工人(作る人)であり、むしろその「門番」に甘んじているかのようです。森への入り口は一つではありません。奥もどこまで深いのか、門番でさえ知ることはできません。なかではいつの間にか他の森にも繋がります。いつでも、だれでも、どこからでもどうぞ、と藤澤さんが誘っていますよ。龍の棲む森へどうぞ、と。

会場:ギャラリー同潤会
   渋谷区神宮前4-12-10 表参道ヒルズ同潤館2階(東京メトロ表参道駅A2 より徒歩2分) 
   https://www.gallery-dojunkai.com
会期:2024年11月20日(水)~25日(月)。11:00~19:00(最終日は17:00まで)。
 急いでください。

「禁止」の文化、「可能」の文化

ビデオ「顔の中の緑」のひとコマ(2024年11月23日、公開予定)

禁止の文化って、もちろん「○○してはいけない」って文化。可能の文化って、「○○も出来ますよ、どうぞ」ってことなんだけど、それは国とかの単位では比較できないですよね。どこの国だって、○○してはいけないというマナーとかルールがあるし、○○はオッケーですよ、という部分もある。宗教も大きく絡んでくるから、そこを良いとか悪いとか一概に言うことはできないはずだし、そんな大それた批評などする気もありません。

わたしが感じるのは、「禁止の文化」と「可能の文化」の入り乱れ方が変わってきたんだな、ということ。普通に考えたら、誰だって「禁止の・・」より「可能の・・」の方が良さそうだって思うじゃないですか(?)。

常識知らずで申し訳ないけど、就職面談で、女子の場合、「すっぴんは社会人としてマナー違反」として、履歴書の写真だけでアウトと評価する人事担当者がかなり多い(という調査結果があるらしい)と最近のニュースで知った(調査内容の真偽に関しては責任持ちません)。パンプス不可、ズックなど身体的理由があっても応募者は自己規制する、とは以前にも聞いたことがある。「女子、可愛そうって」、わたしなど思ってしまう。これは、時代が現代に近づくにつれて「禁止事項」が増えてきている事例だと思う。当然、男子には男子なりのそれがあると想像される。

一方で、面接にわざわざ「普段着でお越しください」というメッセージを送る会社もあれば、希望すれば「オンラインのみで面接」という会社もある、と聞く。これは「可能の文化」系ですかね?「禁止」されると蕁麻疹が出るわたしなどは、可能な限り、「可能の文化」の中で生きていきたいし、それをできるだけ支えたいとも思っている。