曼珠沙華の風景

「曼珠沙華の風景」  ペン、水彩

「曼珠沙華の風景」の制作をビデオ撮影した。1~2週間後には YouTube にアップロードする予定。前回のアップからすでに2週間経っているので、今回は1ヶ月かかることになりそうだ。自分でもがっかりするが、仕方ない。やらないよりはましだ、と思うしかない。

先日と、この2つのエスキースを使って制作、撮影した。撮影の考え方を、ほんの少し進めることができた。一歩ではなく、足一個分だけ進歩。それでも毎回数時間、編集の負担が減るはずだから一足分とはいえ、小さくはない。それにしても、余計なことに気を取られ、無駄な時間を過ごし過ぎている。

彼岸花の周辺

         「彼岸花」  ペン、水彩

先日のブログに上げた、「曼珠沙華=彼岸花」を描いてみます。花そのものは凄かったので、それを描くためののエスキースです。

一つ一つの花を描いても「彼岸花」にはなりません。その前に個別の植物学的分類というものがあって(それ自体も「揺れ動く」のですが)、「彼岸」という仏教用語に繋がる、歴史的環境的意味関係をいったんは断ち切ります。それを踏まえたうえで、秋の彼岸の時期にまとまって咲くこの花の、全体としての存在が「彼岸花」だというのなら、まとまった花の「情景」こそ「彼岸花」ではないか、なんて理屈を捏ねてみた試作です。

彼岸花を一個ずつ描いてもしょうがない(というより、意味がない)。かと言って赤のベタ塗りだけで判ってください(記号)ってのも、ある意味傲慢でしょうか。ペンで花の下描きをクルクルしてみたら、あの飾り花のクルクル感を「感じて貰えるかな~」なんて120%希望的観測の初回エスキース。甘すぎるのは解ってますが、でも他にどうやったらいいんでしょうね?

チューリップ畑ですか?といわれても返答ができません。コスモス?といわれたら、ちょっと違うかもーなんて言えるけど。花の「かたち」ではなく「花の情景」ですから、個々人の感覚に異を唱えることはできません。というわけで今回の弁解と致します。

この時季

        「栗」   鉛筆、水彩 

あっちを向いても戦争。こっちを向いても戦争もしくは内戦。よくもまあ、こうも飽きずに人は殺し合うものだと思う。それぞれ大義を掲げてはいても、結局、「泥棒にも三分の理」。

けれどそういう「喧嘩両成敗」的な言い方は、実はまったく公平ではない。戦争を例にするなら、戦力の差があり過ぎるケースもある。殺戮的な武器を持たない地域のトラブルのようなものに、力を持った第三者が、別の隠された目的をもって一方に武器を提供するような場合。このような場合は、短時間で弱い方が完全に消滅してしまうことがある。あとは「死人に口なし」。

典型的な「宗教」に隠された殺戮。宗教や歴史的な深い知識がないと、迂闊に正しいだの正義だのとは言いにくいとつい遠慮してしまうが、結局は信仰と命のどちらを優先するかということ。わたしは迷うことなく、目の前の命が最優先だ。宗教だけでなく、性別、年齢も差別はしない、たぶん。ノーベル賞発表の季節になったが、ノーベル平和賞なんて意味があるのか、と疑問を感じるのはたぶんわたしだけではない。

今日も I 氏より栗を頂いた。先日の栗のブログを見たから採ってきたという。そればかり描いているわけにもいかないが立派な栗だった。とりあえず写真だけ撮っておこう。