ウーバーイーツ

           「緑のざくろ」 水彩習作

ウーバーイーツという宅配便があることは知っていた。けれど、利用したことはなく、イーツという名前から、ほぼ食べ物、ピザの配達と似たようなものかなと思っていた。

ところが、どうもそれはいわば「便利屋さん」と宅配便がくっついたようなものらしい。例えば宅配のピザ屋さんにピザをを頼めば直接持ってきてくれるが、ウーバーイーツに頼めばそのピザ屋さんに行って、そこから持ってきてくれるというものらしい。コンビニから何かを買ってきてくれと頼めば(手配は自分でするのが基本らしいが)、コンピニに寄って買ってきてくれるというわけだ。

なんとなく落語にも似たような噺があるから、江戸時代には既に同じようなことを考えた人はいたことになる。それの現代版というところだろうか。もしかすると、わたしのような人は江戸時代においてさえすでに時代遅れだったのかもしれない。
 お年寄りには縁が無さそうだと思ったら、逆によく利用されているのだという。確かに移動手段の限られた高齢者では、日々の買い物さえひと仕事である。特にこの夏場などでは飲料水の補充は不可欠だが、食品類の中では水が一番の重量物だ。それを一箱(12リットル≒12kg)買って運んできてもらうのに利用しているというのである。お年寄りは賢い!現代のツールをちゃんと利用できているじゃないか!

パリ・オリンピックが始まった。スケートボードやバイクの得点ルールをやっと知ったが、要は興味がなかったということ。好奇心が欠けたところに無知がはびこる。「取り残され感」が募るばかり。

過信

     「夏の池3」  水彩

一昨日の「分かったような気になる」の続き、かな。「過信」というより「思いこみ」に近いかもしれないが、まあそんなところ。

身体が傾く。脚で踏ん張る。止まると思った瞬間になぜか支えきれずに投げ出されてしまう。とっさに手をつく。これで止まると思ったまま、地面に顔をぶつけてしまう。だいぶ前のことだが、自転車で車をよけた際の出来事。要するに、筋力低下の話だが、自分の頭の中では(だいぶ昔の)体力に自信があり、それが過信になっていることに気づかない、というどこにでもあるようなエピソード。

でも、残念な話ばかりではない。今だって、これまで出来なかったことが出来るようになることもある。何十年も描いてきた絵の中でもそう。気がつかずに過ごしてきたことに、今になって気づき、練習してできるようになる、という経験を最近でもする。パソコンも日々アップグレードされ、それについていくこと自体に不信感を持ち始めたのに、やってみたら自信回復ということもないわけではない。 

これは「気持の問題」ではない。気持だけでは「過信」になりやすい。実際に出来て「自信」にすること以外にない。若い人が100やれば、自分にできることは10以下かも知れないが、それはやむを得ない。過信禁物である。大けがをする。

分かったような気になる

「デコイつきの水指」  水彩、アクリル

分かったような気になっているのに、実はよく解っていないということがよくある。試せるようなものなら、試してみるとそのことを実感する。見えているのに見ていない、声は聞こえているけど聞いていない。文字は読んでいるけど理解はしていないってことですね。

それに老化が加わると一層厄介だ。眼が悪い、耳が遠いために「〇〇だろう」という憶測が入ってくるし、アップグレードされていない古い知識、これまでの人生で積み重なった勘違いや自分本位の記憶が、頑固さに変質しているのに自分では気づかない。本当は怖いことだが、毎日を知らぬが仏で過ごしている。

そのことを思い知らされるのが、事件・事故に巻き込まれたとき。あるいは何か大きな転機に立った時だろうが、それはもう恐怖でしかない。そこまでではないが、先日パソコンでトラブルがあった時のこと。
 いくつかのファイルのバックアップができない、と表示が出た。onedrive 経由でクラウドに保存するようにというメッセージ。これまでもonedrive では何度も痛い目に遭っているから出来れば使いたくないが、microsoft としてはできるだけ使わせたい。渋々、簡単そうな文言に釣られて、きちんと理解しないまま勝手な解釈でやってみた。やっぱりとんでもないことになってしまった。編集中のビデオの音声データや、全然関係ないと考えていた写真や、ドキュメントなども含め、デスクトップも持っていかれてしまった。
 結局自分ではどうにもできず、息子に Help ! データを失わないよう気をつけながら、小一時間かかって回復してくれた。自分一人では絶対に無理。少なくとも用語の意味とか、その辺のところからやり直さなくてはならなかった。分かったようなふりをした、痛いツケ。

ちゃんと分かるということは大変なこと。何度もやり直せ、逆からでもできる。そのくらいになって、はじめて「分った」と言えるのかも知れない。分ったと言えることなど、片手に足りない(5個もない)ことが、よく「分った」。