ポポー

ポポー。絵画教室のSさんから頂いた
冷やして、スプーンで直接食べた
手に持つと焼き芋にも見える?皮は焼き芋より薄い
「道の駅ー五霞」で売っていた!これは15センチサイズ

「ポポー」という果物を知っていますか?知っている人も少ないから、食べたことのある人はもっと少ないはず。知らないのも当然、 “幻のフルーツ” とも言われているのだそうです。その“幻” をわたしは3度目ですが、どんな味だったかすっかり忘れていました。絵画教室のSさんから自宅畑で作ったというのを頂きました。

なにより香りが独特です。この木の種類からは精油、香油を採取するというのも理解できます。言葉で表現しようとすると、あまり似たような例がないのでなかなか難しい。香りだけだとちょっと酸っぱいようなイメージが湧きますが、食べてみると酸味はあってもほんのわずか。適度な甘さの、ねっとりした濃厚な食感に、むしろちょっと驚きますよ。

原産地は北米東部。モクレン目バンレイシ科アシミナ属の木または蔓性の植物で、多くは亜熱帯~熱帯に生育する。ポポーのように温帯に育つものはごく少ない(6種)。バンレイシ科に属する植物の種類はものすごく多く(110属約2400種)、特に東南アジアではジャングルを構成する木の主要な要素となっている(以上ウィキペディアより)。
 日本には明治30年頃に観賞用として輸入され、昭和初期には栽培のしやすさから一大ブームになったと紹介されています(たぶん食用としても)。栽培の写真を見るとアケビのような実の付き方をします(実のかたちも似ていますね。そこからアケビガキと呼ぶ地方もあるそうです)。現在の代表的な産地は愛媛県と茨城県。確かに昨日(9/16)、茨城県五霞町の道の駅に行ったら売っていましたよ!!10パック近くも買っている人がいました。ちょっと食べ慣れない味ですが、そのぶん逆にハマる人もいるんでしょうね。
 ポップには「森のカスタードクリーム」とありました。わたしの食感でいえば、アボカドとプリンを混ぜたような感じ、あるいはマンゴーとプリンをミックスしたと言った方が近いと感じます。ポポーは北米原産ですが、食感は多くの仲間のように断然トロピカルフルーツ!栄養価もきっと高いと思います。

なぜこれが“幻” になったかというと、皮がとても薄くて柔らかく、傷みやすいからです。これはこの科に共通する特徴のようで、果実に触るだけで傷つき、簡単に皮がむけ、黒ずんでしまい、お店に並べる前に “美貌(ビボー)” が台無しになってしまうんですよね。そのため世界的にも輸出入は難しいそうですから、“幻” になったのは味のせいではなさそうです。
 アボカドがわたしは大好きですが、食べるようになったのは最近のこと。ずっと見ているだけで手を出しませんでした。あの、柔らかい石鹼を齧るような触感もはじめの頃は好きではなかったのに、あるとき、お寿司屋さんでアボカド巻きを食べたのをきっかけに好きになりました。ポポーも最初は半信半疑。1回目は、こんなものかな??。2回目は、ううん、好みが分かれそう、という感じでした。
 3回目は?まだ、大好きとまでは言えませんが、また、機会があればほかの食べ方もしてみようかなとは思いますね。本当は“スケッチの素材” としてくださったかもしれません。でも、かたちがシンプルすぎて、描くのはちょっと難しいと思っていました。弁解ですね。

素手

「かぼちゃ」水彩

何をやっても遅い。いくら早くやろうとしても、気持ちが焦るばかりで、目的も目標も方法もいちいち分からず、そのためのスピードもまたノロく、人の背中がどんどん離れていくばかり。夢か現実か、そんな気分ばかり。秋のせいではない。

そんな気分はきっとわたしだけではないと思うけれど、皆口に出したくないのだろう。そんな思い気分を加速するだけだし。

立ち止まることができない。前回「Take your time」で「自分の時間」について書いた。いくらか前向きな気分で書いたが、ふと自分の足元を見ると地面さえないことに気づく。自分はどこに立っているのかが分からない。自分のもっているもの、こんな状況を変えられるものは何だろう。何にも持っていない気がする。失くしたのか、それともはじめから持っていなかったのか。

Take your time – 自分の時間

「園芸ショップにて(エスキース)」水彩 2023

自分の時間はどのくらいあるのだろう。これから何年生きるかによるけれど、現実には誰も自分の寿命を知ることができないわけだから、計算などするだけ無駄という気もしないではない。それでも、そろそろラストを考える年齢になってくると、“終了式” の段取りがしたくなってくるものらしい。

あと10年、というのがわたし自身の(単純に感覚だけの)寿命予測。睡眠や体調不良による“何もできない” 時間がその3分の1、少なく見ても3年半。仕事など生活のための時間がやはり正味で3年くらい?わたしには何の蓄えもないからもっと長期間必要かも知れないが、その時にはもう体が動かないだろうから、たぶんそんなもの。

それ以外の時間、絵を描いたり(そんな余裕があるか疑問だが)、文章を書いたり本を読んだりする時間、たまにはゆっくり美味しいコーヒーを味わうとか・・それが3年くらいだろうか。それで10年になる。ただ、この「3年」は正味の時間だから、仮に何かを研究するつもりなら、ちょっとした小さなまとめくらいはできるかもしれないほどの時間。絵なら、自分の本当に残したい1枚くらいは描けるかもしれません。そんな絵が出来たなら、自分としてはそれで十分で、そのまま死んでもいいと思っています。たぶん周囲も喜んで見送ってくれるでしょう。でも、病気などしたらその真逆。迷惑をかけるだけで終わってしまいます。それだけは気をつけねば。

あらゆる意味で、ラストチャンス。失敗してももう後がありません。来月、銀座でグループ展に出品しますが、ちょうど10回の区切りを迎えるので、それを最後にもう銀座や上野、六本木などへ出品することはやめるつもりです。せいぜい埼玉県内だけ。といって、「まなじりを決して」というほどの切迫感でも悲愴感でもなく、やれるところまでやる、中途半端で終わるならそれはそれでよし、という平易な気持で残り10年に望みたいと思っています。自分の残り時間を、自分のペースで最後の消費をする、ティク・ユア・タイムと自分に言い聞かせながら。自分の時間を他の誰かに残せるわけでもないし、ね。