情報

「ワイン瓶とパン」水彩  ―ここは井戸のど真ん中だ―

関東地方は、今日は東京・大手町と埼玉県熊谷市以外は猛暑日ではなかったようですが、今日もほぼそれに近い気温でした。それでも立秋を過ぎたという気持のせいか、なんとなく夜の気温が過ごしやすくなった(ような)気がします(最低気温24℃なんですけど)。こういう気象情報は、すべての事象に目に見えて関係するので、誰にとっても価値のある情報だといえるでしょう(こじつけ感ありありですね(>_<))。

情報がない、というのも一つの情報であるように、すべての物は情報化します。ただし一般論として。それは誰かにとっては(きっと)意味があるに違いない、というほどの意味です。逆に言えば「自分にとって価値の無いものは情報ではない」ということの裏返しだとも言えるでしょう。
 漁師や釣り人にとって、潮のあるなしは大きな情報ですが、農家の人にとってはほぼ無価値でしょうし、マスクをしなくなって、口紅が急に売れ出したとかは女性にとって興味ある情報でも、おじさん、おじいさんにとっては“意外にも” ということはあまりなさそうだ、という風に。

知らなければ知らないままで済んだのに、知ったばかりに大きな負担になる情報もあれば、知ることで大きなアドバンテージになる情報もあるでしょう。戦争(競争でも)では相手が欲しそうな情報を、魚釣りの針のように相手に投げ与えるフェイク情報もばらまかれて、油断ができません。情報を嗅ぎ分けるための情報も、それを知るための情報も、情報の山の中から選びださなくてはなりません。アナログな忍耐力もきっと必要な能力です。

「井の中の蛙」という言葉は、自分にだんだんよく当てはまるようになってきた、と感じます。知らなければ知らないままでも不都合を感じなくなってきた、という意味です。無風の「井の中」がだんだん居心地良くなってきたのです。井戸から出て、自分に必要な情報をさえ集めるのがだんだん億劫になってきています。自然に落ちてくる情報だけで満足できるようになってきたのですね。そう遠くないうちに、(幸福なことに)いつしかそこが天国だと信じたまま、土に埋もれていくのだろうと思います。

「黄昏(たそがれ)」制作中

「黄昏(たそがれ)」制作中 テンペラ

作品を創るとき、わたしは「一語」でその作品のコンセプトを言える方がいいと常々思っていて、受講者の方にもときどきそれを要求することがあります。題名とコンセプトは似ているときもありますが、多くの場合は表現の角度がすこしズレているものです。たとえば題名は「Apple」、コンセプトは「Juicy:ジューシー」みたいな。

この作品の仮題(一応つけておきます)は「黄昏(たそがれ)」。コンセプトは「果てしない孤独(または華やかな孤独)」。陳腐、ですか?いずれにせよ「孤独(感)」がテーマです。

嘘でしょう~!?という声が聞こえそうです(笑)。確かに、上辺の派手な夕陽(?)のイメージは、多少孤独感に関連あるとしても、Apple上のポップな色△は、「『孤独』とどうつながるんですか!」って、噴火してしまいますよね。ごもっともです。
 でも、ここは「孤独」のとらえ方の違いです。わたしにとって、「孤独」は「すべての生物は必ず死ぬ」という「客観的事実」とストレートにつながっています。「死は共有できない」=「孤独」と言い換えてもいいでしょう。
 一方、そう言う論理とは別に、「寂しい」という感情は誰にでもあると思います。それは人それぞれ、時と場所により、千差万別ですが、その本質は「喪失感」だと思っています。モノは有り余っているが、本当に欲しいものはない。行きたいところはいっぱいあるが、どこへ行っても何かが満たされない。たくさんの人と会い、楽しく過ごせるけれど、自分自身がどこかへ行ってしまっているなどなど。
 そのギャップを大きく感じさせる手段として、派手さや華やかさがあると考えているわけです。もちろん、キレイな色自体を使いたいという気持が先にあるからですが。

「黄昏(たそがれ)」って、題名としてはかなり安っぽいですが、とりあえず「言葉」的に、感傷的な「寂しさ」を想起させてくれるはずです。そして絵の内容(形や色や構成)でその陳腐さを裏切るのが理想です。たぶんこの作品が、わたしが東京・銀座で発表する最後の作品になると思います。キレイにまとめることなく、存分に壊し、壊れたままで出品できたらいいなと思っています。出品は10月中旬。そのうち、またご案内いたします。

宅配便

制作中 F100 テンペラ

暑いですね、と先月からもう何度書いたことか。朝から「“もう今日の予定はありません”」とリマインダーに表示されると、ちょっと寂しいような、「“もう” だけ余計だよ」と口を尖らせたくなるような気持になります。でもまあ、このくそ暑いのに出かけずに済むだけマシかと、自分の仕事?にかかります。

すると、決まったように “ピンポーン” と宅急便が来る。わたしはどちらかと言えばクーラーが苦手(体が冷えて胃腸の調子が悪くなる。扇風機の風も直接は当てない)なので、汗をかきながら、一人の時はいわゆる“パンツ一丁(と薄いTシャツだけ)” で仕事をしています。ですからそれが鳴ると、あわててそこらにあるズボンなりに脚を突っ込みながら、転びそうに玄関に走って行く。最近では何も言わずに荷物を置いていくだけのことも増えましたが、それでも毎日のようにピンポーンが来ます。

手を洗う時間もない。ちょっと手間取るとするとすぐ「不在連絡票」を置かれてしまいます。再配達も気の毒だし、こちらも面倒くさい。一日に3枚も不在票を置かれたことがあります。玄関に辿り着くまで、数秒長くかかったからでしょう。宅配の人も秒単位で動かないと仕事が終えられず、待つ余裕などないのだろうと推察します。
 宅配便は便利ですが、できれば人を使わずに済ましたいと業界では考えているに違いありません。ドローンやロボットの方がもっと“酷使” できるし、見方によっては単純作業の一種でもあるので、効率化が進めば人件費より安くなることも可能だからです。

いずれは宅配もドローンやロボットがやる仕事になるのでしょう。でも、その時、宅配の仕事をしている人たちに “時間の余裕ができた” とはわたしはたぶん思いません。おそらく、ただ職を失ったに過ぎないでしょうから。