リハビリ

Apple-たそがれ(制作中 8/15):下半分、考えを練り直しているところ

手指の強張りが強くなり、素人療法で“リハビリ” を始めました。強張りの強い2本の指、左右の中指を逆ぞりにするストレッチです。“素人療法” とはいっても、ネット上で効果があるとお医者さんが勧めているものです。やってみると、一時的にせよ指が真っ直ぐになり、そのあと特に痛んだりもしないので、なんとなく良さそうだという感覚が頼りです。

2か所の整形外科へ行ったのが1~2年前。どちらも判定は「腱鞘炎(けんしょうえん)」。指の腱を通す鞘(さや)が変質し、腱との摩擦で炎症を起こしているということです。使い過ぎが原因とされますが、絵画制作で酷使していた頃は何でもなく、パソコン作業が多くなってからなので、最初はリウマチかと思いました。パソコンでは指を酷使する印象が自分では全然なかったのです。ばね指が強くなってクリニックに行ったのですが、その時点でで腱鞘炎としてはだいぶ進行していたことを知りました。
 塗り薬を貰い、リハビリとしてレーザー光線を当てる治療をやったのですが、クリニックでの時間を費やす割には効果を感じることができず、2~3ヵ月で止めてしまいました。

大きなサイズの絵を描くと、指がパソコンの時とは違って様々な動き方をします。力の入れ方も大きな強弱があって、単純に押すだけのキーボードとは全然違います。結局、それが一種の“マッサージ” になるのか、何となく気持ちがいいのです。絵を描くのは、時に指を酷使する瞬間はあっても、使い方が変化に富み、ワンパターンにならないことを再認識。

それで、あらためてストレッチをやり直してみようという気になりました。参考例を見ると、①指反らし:10~30秒×20回を朝夕2セット=30秒なら全部で20分 ②指曲げ:10~30秒×20回を朝夕2セット=同20分 とあります。全部で40分。片方だけでも20分ですから、レーザー治療(7分)よりはむしろ長いのですが、「待ち時間」がありません。
 最低2ヶ月は継続。忘れなければ、ときどきご報告いたしましょう。

ヒット・エンド・ラン Hit and Run

Apple-たそがれ CGにて加筆中

阪神甲子園球場での夏の高校野球。見る時間も、ラジオで聴く時間もないので、つい結果にも関心が薄くなってしまいましたが、ふとニュースの中で「ヒットエンドラン」という言葉が耳に入りました。高校野球のことかなと、ちょっと耳をそばだてるとウクライナ戦争での、アメリカが供与したハイマース(高機動ロケット砲システム)のことでした。

反転攻勢で攻めあぐねているウクライナ軍で、もっとも活躍している兵器らしいのですが、驚いたことに “損失が確認されていない” という話題でした。つまり一基も失われていないということ。鳴り物入りでウクライナ入りした戦車レオパルド2でさえ、すでに何両か失われたと報告されています。相手がただボーっと突っ立っているのでもない限り、どんな優秀な兵器でも多少は損害が出るものです。相手だって、最新兵器で戦っているのですから、損失ゼロというのは信じ難いことです。

いわゆる“大本営発表” かと思うと、そうでもないらしいのです。その理由は「ヒットエンドラン」。野球とはちょっと違うけれど、「撃ったらすぐ走る(逃げる)」という戦法が、“損失ゼロ” の主な理由なのだそうです。ハイマースはタイヤで走る、いわゆるトラック型の発射台に載せた、GPS誘導のロケット弾システムです。道路がないと走れないというマイナス面がある反面、現場についてからGPSで目標位置を確認するまでに30秒、2発目を発射してから台をもとの位置に戻して移動できるまでに30秒。つまり攻撃から撤退まで約1分しかかからないといいます。2発目から装填に少し時間がかかりますが、4発発射しても3分で撤退できるそうです。ロシア軍が、ハイマースの発射位置を確認するまでに最短でも90秒以上かかり、そこへ砲弾なりミサイルなりを撃ち返す準備ができるまでにさらに数分。その間に台車は最高時速85キロのスピードでその場所を離脱できるので、反撃を免れることができるのだそうです。まさにヒットエンドラン。兵士の安心感も大きいでしょう。その上に、徹底した収納場所の情報秘匿が噛み合っての“損失ゼロ” なのだとか。以上、すべてネット上で見た限りですが。

大砲で撃ちあうなんて、第一次世界大戦並みの“古めかしい戦い” などと一方で言われてきましたが、それを聞くとさすがに現代の戦争です。撃った位置に、たちどころに撃ち返されるなんて。逃げ足の速さが勝敗を分ける。同じようにウクライナ軍に供与された、各種の「榴弾砲(自走も含む)」が相当数破壊(当然、その場の人的損失も出る)されているのも、その逃げ足が遅いためなのだとか。その数分間がまさに生死を分けているのですね。
 不謹慎ですが、自分のスピード感覚が時代に遅れていることも感じました。

手 Hands

8/12(土)アップロードしました

毎日手を使って生活しているのが当たり前で、わたしだけでなくほとんどの人が「いま手を使っているぞ」などとは意識しないでしょう。意識するのは怪我や病気などで一時的に使えなくなるときくらい。あるいは楽器演奏などで、譜面通りに指動かすことができないもどかしさ、工作などであと一本指があれば!とか思うときくらいでしょう。

手は、便利というよりかけがえのないもので、これが人間を他の動物と隔てる壁になっているようです。手が「手」になっているのは人間と「類人猿」だけです。けれど、それ以外の動物もきっと「『手』が欲しい」とは思ってもいないし、それで満足しているはずです。人間だけが手の便利さを知っているから、手が失われたとき、それを補うための道具を考え、そして何より「作れる」のです。さすがに「類人猿」でもそれはできません。

それが「文化」「文明」の力なのでしょう。思想や技術の蓄積、つまりは歴史。人間だけが「歴史」を持っていると言えば、一瞬、そんなことはないと感じるかもしれません。でも、どんな恐竜がどの時代に生きていたかを、人間が作った物差しの中で照らしてみることができるのは人間だけだ、と理解すれば意味は伝わるでしょう。恐竜の骨はたんに「物」であるだけで、それ自体は「歴史」ではないからです。恐竜学者が新しい骨の発掘にワクワクするのは、人類の「新しい歴史」を自分が創っているからです。

もしもわたしたちに手がなければ、すべては「お手上げ」状態で、食事さえままなりません。うまく鳥を捕まえたとしても、ワニのように丸呑みするか、脚で抑えて口で翅をむしり、何より「生きたまま」食べなければなりません。あるいは屍肉か。ほとんどの野生動物がそうしているように。あるいは植物の実や葉を求めて季節ごとに移動しなければ餓死してしまいます(しかも歩いて)。魚など食べることはほぼ一生できないでしょう。そして、歴史を持たないまま絶滅します。
 最近、手の指がだんだん曲がったままこわばるようになり、ことさら手のことを考えるようになりました。