ゴール Goal

「Appleー一人で行く」テンペラ F6 2023。08.22

この絵では下半分は不要です。手で隠して見て頂ければその意味が解ると思います。ところがキャンバスを半分に切るわけにもいかず、下半分になんとか意味付けをしようと、2ヶ月ほど無駄な時間を費やしました。まあ、手のかかったエスキースだと思えば、無意味でもなかったでしょうけれど。

もたもたしているうちに、性格の異なる二つのアイデアが一つのイメージを共有しているような、どこかバランスの悪い(居心地の良くない)絵になってしまいました。下半分を切ることは、一つのアイデアを捨て去ることなんです。さらに最近の作品の流れを意識し過ぎて、ちょっと細かい描写?が多くなり過ぎです。余分な時間をかけ過ぎると良くないことの好例ですね。

とはいえ、とりあえず終了することができました。ゴールにたどり着くことはマラソンと同じように大切なことです。ゴールして初めて、あそこがダメ、ここがいい、次はこうしてみようと冷静に見ることができるようになります。途中で放棄してしまう場合よりはるかに多くを知ることができます。ゴール地点の高みから、スタート以前からの全体を俯瞰することができるようになるからですね。放棄する場合でも、いったんゴールまでのご褒美を受け取っているので、悔いなく処理することができるのです。終了した直後から、次の絵を発想、スタートすることができました(現在制作中)♪

砂漠でわさびを育てるような

2023..08.20 21:40 やっとアップしました

かなり時間をかけて編集(かかり過ぎ)、予定よりまる一日以上遅れて、昨夜配信しました。毎回面白く、役立つようにと少しずつ工夫しているつもりですが、どうも一人で空回りしている感じがします。

たくさんのYouTuber が同じように感じ、それに対応しようと頑張りすぎて、身体を壊してしまう人も少なくないようです。わたしがチャンネル登録している人の中にも、突然しばらく投稿がなくなったり、しばらく投稿休みます、などとメッセージが出たりしています。
 わたしはせいぜい “一週間に1本出せればいい” レベルのまだまだとぼけた方ですが、何十万人ものチャンネル登録者を運営しているYouTuber などは、ほぼ毎日どころか月に50本とか100本とか投稿しているので、いくらスタッフがいたり、編集やサムネイル作りを外注したりしていても、寝る時間を確保するのさえ難しく、過労は避けられないと想像できます。

YouTubeからクリエイターに対して、健康管理に注意するようメッセージが届くのも、そのことを反映しているのでしょう。確かに面白くないよね、と自分の動画を見て思いますが、かといって一時的に無理なキャラクターを演じてみても、もっと負担が増えるだけで、何度も続けられないでしょう。結局はコツコツと工夫を重ねていくしかないのですが、アップするたびに砂に水を撒くような感じはとてもメンタルに響いてきます。

動画作りに慣れるにしたがって、様々な編集技術を覚え、動画は滑らかになっていきます。けれど、面白いかどうかはまったく別問題、感性の問題です。必ずしも内容の問題でもありません。学校に通っている時、同じ数学、英語という教科でも、先生によって授業が面白かったり、つまらなかったりするようなものです。これはたんに知識とか技術だけではない何か・・・が、あるかないか、なんでしょうね。

パーソナリティ

拙作「飛ぶ男」(F30 テンペラ)より、背景の一部分

その人らしさ。「個性的」と強調するほどでもないが、かといってまったくの金太郎飴でもない「その人らしさ」。パソコンで仕事すると、それがなくなると心配する人がいます。とくにAIがさらに浸透してくると、人間自体の存在感がどんどん薄くなっていくのではないかと。

かつては文書と言えば手書きしかありませんでした。しかし、中には個性的過ぎて読めないものもあったりします。日蓮上人の手紙などを博物館で見たことがありますが、一目で、良くも悪くも「この人は普通の人ではない」と思わせるほどの強烈な書きぶりに驚きました。一般の人が文字でやり取りするようになると、当然判読しにくいものも増えてきたでしょう。
 文字の美しさや、その人らしさを犠牲にしても、「読みやすさ」を優先してタイプライターが発明され、やがてワープロになり、現在はスマートフォンのボタンどころか音声をきちんと聞き取り、きれいな文字にして送信してくれます。
 けれど、一方で人間は画一性を嫌う生き物でもあります。たとえばその、フォント。読みやすい、使いやすいだけなら1種類だけですべて済みそうなものですが、あきれるほどたくさんの種類があり、ほとんどの人は時と場面によってそれらを自在に使い分けています。それは感情を伝えようとする本能からくるのでしょう。人間はコミュニケーションをとることで文明を築き上げてきたのですし、そのコミュニケーションのもとは「共感」なのですから、ある意味当然のことでもあります。

コンピューターの専門家たちは「パーソナリティが大事」「最後はその人らしさ」とよく言います。コンピューターが「その人らしさを無くす」という考えと、180度逆です。どういうことなのでしょうか。ワープロなら、同じキーボード、同じソフトに同じフォントでも、打ち込む文章は人それぞれ。あたりまえのようですが、それをコンピューター全体に広げても同じことだと言えるのでしょうか。わたしにはとてもそうとは思えません。そこには「慣れ」の問題があるからです。
 そもそもワープロを始めて使った頃、文章云々の余裕などなく、使いこなそうとするだけで精一杯。「使いこなしているうちに」だんだん自分の方に意識が還ってきて、「自分らしい」文を考えられるようになってきたのではなかったでしょうか。
 けれど、コンピューターを「使いこなす」のは、はっきり言って「無理」。パソコンはただの道具ではありません。しかも日々更新し、自分とのギャップが縮まるどころか、どんどん開いていく。「使いこなせる」日など永遠に来ないのです。

結局、コンピューターを使っても、その一分野だけ、たとえばグラフィックアートならそこだけ。そこに特化して「使いこなせ」るようになり、初めて「最後はその人らしさ」と言えるだけではないでしょうか。「コンピューターで自分の世界が広がる」は、一種の幻想ではないのでしょうか。自分が知らなかった、できなかったことをコンピューターで知ることができ、やることができる。その意味では確かに「自分の世界が」広がったように感じるでしょう。でも、それ以外のところではむしろさらに谷は深くなり、断絶は厳しくなってくるのではないでしょうか。「その人らしさ」の伝わる分野は一層狭くなり、時には極大化されて、「その人らしくない」その人らしさが広がっていくのではないでしょうか。